紅葉賀~欲望の三角形

※この記事は2020年6月11日にnoteで公開したものです。

 

 

ずいぶんと間が空いてしまった。緊急事態は解除され、ニュースには「東京アラート」なる謎の言葉が躍っている。外出を控える生活にも慣れ切ってしまい、今はむしろ外に出るのが億劫でならない。レインボーブリッジが赤くライトアップされているらしいが、湾岸部まで出かけていく気力はないし、もちろん家からも見えない。引きこもり能力を政府にタダで提供してやる筋合いはないと息巻いていたのに、結局給付金すら手にできないまま、ぼんやりと家で生活している。なんだかやりきれない。とりあえず更新をさぼっている間に読んでいた本でも書き留めておく。

www.hanmoto.com

感想文を書くために再読。思い入れがありすぎて、書いてはまとまらずに放置、のサイクルを繰り返していた。ちなみに記事はこちら。

migushi-orosu.hatenablog.com

 

www.hanmoto.com

若者の政治意識と民主主義についての諸問題についての本。とにかく読みやすい。民主主義への懐疑は世界的な潮流であることがよくわかる。

 

www.hanmoto.com

紫式部を見習って漢籍の勉強をしようと読み始めた……わけではなくスーパーシティ法案が持ち上がったときに慌てて読み始めた本。まだ読みかけ。唐の国はいつも先進的だけど、後進の我々は常に批判的でいる必要がある。

 

www.hanmoto.com

数年読みかけの本。いい加減読み切りたい……。

 

www.hanmoto.com

0~11巻まで読了。五条悟はずるい。ほんとうにずるい。

 

 

さて源氏物語である。緊急事態宣言が解除されても読む。

www.hanmoto.com

紅葉賀は、ざっくり言えば「光君の舞がすごすぎる件」「藤壺と光君の不義の子が爆誕」「光君と頭中将が典侍を取り合い」の三本立てである。今回は一番最後のトピックに触れようと思う。

この典侍は57~58歳の女性で、帝の整髪係である。帝は容姿が良く教養のある女性ばかりを内裏に雇っていたらしく、典侍も例に漏れず才気と気品にあふれた女性だ。一方で彼女は好色であり、光君の軽い誘いに乗って親しくなる。その噂を耳にした頭中将は対抗心を刺激されて典侍と寝るが、彼女の本命はやはり光君のままだ。とうとう彼女は光君を家に招き入れ、本意を遂げるが、そこに頭中将が忍び込む。鉢合わせた光君は相手が頭中将とわかるとおかしくなってしまい、腕をつねったり服を引っ張ったりして二人でふざけ合う。

「おいおい、本気なのかい。うっかりふざけてもいられないね。ちょっと、この直衣を着るから」と言うが、頭中将がしっかりつかんで放さないので、着ることもできない。
「それなら、あなたもつきあいなさい」と、光君は頭中将の帯を解いて脱がせようとする。頭中将は脱がせまいとさからって、二人で引っ張り合っているうちに、直衣の袖が、縫い合わせていないところからはらはらと切れてしまった。(p245)

この後二人は、びりびりに破けた服のままの「しどけない姿でいっしょに帰っていった」(p246)らしい。なんだか間抜けで愛嬌を感じるシーンだが、これはいわゆるサービスシーンではないか。不自然に服が破れて肌が露わになった貴公子二人の描写を、何度も読み返してうっとりする読者がいたとしても不自然ではないだろう。

また、頭中将の光君への意識もここで説明されている。

身分の高い女性を母親に持つ親王たちでさえ、父帝の、光君にたいする扱いが別格なので、気を遣って遠慮しているのに、この頭中将は、どんなちいさいことでも光君にぜったいに負けるはずがないと対抗意識を燃やしているのである。左大臣の子息たちの中で、この頭中将だけが葵の上と同腹だった。彼は、自分と光君との違いは、光君が帝の子だというだけではないかと思っていた。自分だって、同じ大臣の中でも帝の信任のとくべつ篤い父左大臣が、帝の妹である内親王に産ませた息子であり、この上なくたいせつにされているのだから、まったく引けをとらない身分ではないかと思っているのだった。人柄も非の打ちどころなく立派で、何ごとにおいても申し分なく、不足なところもない青年である。つまらないことでも二人は張り合うので、見ていると不思議なほどだった。(p248)

実際にいつも上をいくのは光君である。頭中将はなまじ対等だと思っている分、もう少し努力すれば勝てそうな気がしてしまい、ライバル心をかきたてられるのだろう。そして主人公に肉薄するようなライバルがいると、物語は格段に面白くなる。紫式部、エンタメ作家でもあるな。

しかし、完全無欠の貴公子である頭中将よりも常に目立つ光君の方が、見ようによっては不気味かもしれない。誰もがうっとりしてしまうような美というのは、不吉なものの隠喩になりうるのではないか。かぐや姫だって絶世の美女だったし。

この章で特に興味深いのは、男性との恋愛に積極的な年配女性が登場するところだ。典侍は光君を果敢に口説き、一度はセックスに持ち込んでいる。さらに頭中将のライバル心も意図せずに刺激し、彼ともセックスしている。典侍はその衰えない好色ぶりで男性たちに引かれながらも、自分の欲望を自分の才覚できっちり果たしているのだ。平安時代の性的規範や文化的背景に全く詳しくないので、好色なキャリア女官の表象がどんな意味を持つのかはわからない。しかし年配女性の恋愛や性欲と未だ正面から相対できない現代に生きる人間にとっては、とても画期的な描写に思える。

【感想】レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』左右社

※この記事は2020年6月9日にnoteで公開したものです。

 

 

www.hanmoto.com

女性の意思や経験を無視して独りよがりな講釈を垂れる男性たちに焦点を当てた『説教したがる男たち』を含む、フェミニズム・エッセイ集。日常で経験するささやかな違和感から国際ニュースまで、あらゆることの根底に潜む男女間の権力格差を著者が思索によって暴き出している。

5年ほど前の日記を読み返していたら、「日本と日本人に絶望している」と書きつけられていた。国内で長期の一人旅をしていた頃のメモである。自分の2倍以上生きている人はそれなりの知見を持っているはずだという青臭い思い込みは、このとき行く先々で年かさの男性たちに説教や講釈をぶつけられたおかげで、跡形もなく粉砕された。居酒屋で隣り合わせた男性は「離婚はアメリカの悪習、夫婦は何があっても最後まで連れ添わなければいけない」と歴史修正と道徳規範がまぜこぜの講釈を垂れ、バスの男性運転手は「出産は若いときに済ませた方がいい、親が年取っていると子供がかわいそう」と余計なアドバイスをし、通りすがりの店の男性オーナーは私の予定を無視して執拗に旅行ガイドを買って出た。彼らは一様に押しつけがましく、聞き耳を持たず、価値観が驚くほど古く硬直していた。そうして私を「女の子なのに一人旅なんてえらい」と男に近い女として褒め、女だから無知だと決めつけてバカみたいな自説をうっとりと語り、女に予定も意思もないとばかりに自分本位な要求をぶつけて時間とエネルギーを奪い続けた。それらひとつひとつは大したことでなくても、積み重なると心身ともに疲れ切って、街を歩き回ること自体をためらうようになってしまう。私にとって「旅先での出会い」は女性差別との出会いだった。21世紀だというのに、一人で歩く女に説教したがる男たちがこんなにたくさんいるなんて、もう日本社会はおしまいだと思ったが、本書を読むとこれは日本だけの話ではないようだ。日本よりも女性の地位が保障されているように見えるアメリカに住んで、何冊も自著を出して賞を獲り、文筆家として権威になりそうなキャリアを辿っている女性ですら、男性に見当違いな講釈をぶたれている。島宇宙の外にも地獄はあるらしい。

6番目のエッセイ『ウルフの闇』は、さまよい歩くことと女性についての文章である。ベンヤミンが論じたように、匿名の個人として都市空間を目的なく歩き回ることは、非常に近代的な経験であった。またソローのように、自然界を散策することに価値を見出した者もいる。戸外をさまよい歩くことは、内省を深め想像力を活性化する手段だったのだ。例えば、ソローは『歩く(ウォーキング)』というエッセイでこう書いている。

私は、一日に少なくとも四時間——たいていはそれ以上——、いっさいの俗事から完全に解放され、森を通り抜けたり、丘や野原を越えたりして、あてどもなく散策するようにしていないと、自分の健康や生気を保つことができないような気がする。(H.D.ソロー『市民の反抗 他五編』岩波文庫, p110)

『歩く(ウォーキング)』には一箇所だけ、女性に言及した部分がある。

男性よりもさらに家のなかに閉じ籠りがちな女性が、そんな暮らしにどう堪えているのか、私には知るよしもないが、彼女らの大半はたえているどころか身を横たえているのではないかと疑いたくなる根拠を、こちらはちゃんともっている。(同上, p112)

ソローは当時のアメリカ女性の置かれた状況をどのくらい理解していたのだろうか。彼女たちが男性より家のなかに閉じ籠りがちだったのは、女性が「いっさいの俗事から完全に解放され」ることなどありえず、また戸外は男性仕様に誂えられていて、女性たちにとっては危険だらけだったからだろう。都市空間にせよ自然界にせよ、この時代に戸外を自由に歩き回ることは男性の特権だった。家に閉じ籠ることこそが、最近まで女性が最も安全でいられる(かもしれない)方法だったのである。

21世紀の現在、女性が家を出て外を歩き回るのは一般的なことになった。ここ200年ほどで女性は多くの自由を手にしたように見える。しかし、制度的平等の下にあっても、賃労働と家事労働に圧し潰され、自分のための散歩をする暇もない女性はいくらでもいる。2番目のエッセイ『長すぎる戦い』に書かれているように、レイプ等の性暴力の危険はいつだって女性に付きまとっている。日本の地方都市をさまよい歩いた私は、女性であるせいで匿名になれなかった。男性のうんざりするような講釈はもちろん、飲食店でも博物館でも道端でも、男性から無遠慮にじろじろ見られることは日常茶飯事だった。未だに女性は男性ほど自由ではないのだ。女性の自由な行為の責任と帰結は、男性のそれよりずっと重い。

20世紀を生きた作家、ヴァージニア・ウルフは『ストリート・ホーンティング』というエッセイで、冬の黄昏どきに一本の鉛筆を買うためロンドンの街へ出かけた経験を書いている。まだ女性が街を歩き回ることが珍しかった時代に、女性作家が都市の匿名性と自由を、頭の中でにわかに勢いづいて繰り広げられる思索を、つまり実質的に男性の特権だった近代的経験を語っているのだ。彼女の思索と作品は、現代の女性をも自由の闇へ誘ってくれる。著者はウルフという作家をこう評す。

ウルフが常に称える解放は、公的でも制度的でも理性的でもない。大事なのは見慣れたもの、安全なもの、既知のものを超えて、もっと広い世界へ到達することだ。彼女が求めた女性の解放は、単に制度の中で男性がしていたことを女性もできるようになる(いまでは実際そうなっているが)だけではなく、女性が地理的にも想像の中でも、真に自由に動き回れるようになることでもあった。(レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』左右社, p119)

自分ひとりの時間を十分に確保して、誰にも気にされず、自己防衛に気を取られず、未知の暗闇をさまよい歩けたらどんなにいいだろう。私はそういう自由が欲しい。彷徨と冒険はまだ女性へ完全に開かれていないもののひとつだ。これらの男女平等は制度だけでは保障できない。自分の経験を語り、怒りや違和感を自ら描写することが、さらなる女性解放への布石になる。男性たちの見当違いの説教が「マンスプレイニング」と名づけられたことは、この社会に根強く存在する男女格差の一端を炙り出した。そのおかげで、私は一人旅で味わった苦い経験や感情を自ら殺さずに済んだし、街をぶらぶら歩き回る自由と希望を捨てないでいられる。「言葉は力だ」(p158)。

末摘花~古臭く醜い女

※この記事は2020年5月11日にnoteで公開したものです。

 

 

www.hanmoto.com

先日のTBSラジオ『ACTION』に、訳者の角田光代氏がゲスト出演していたのだが、そこで角田氏が「紫式部は末摘花みたいな女性が本当に嫌いなのだと、訳しながらひしひしと感じた」というようなことを言っていた。そんなに辛辣な書き方なのか、実際はどんなものだろうと思いながら末摘花の章を読み始めたのだが、確かに末摘花の描写はひどい。例えば、光君が初めて見た末摘花の姿はこうである。

まず目に入るのはその座高の高さ。やけに胴長に見えるので、ああやっぱり、と胸がつぶれるような気持ちになる。その次に気になったのは、その異様な鼻である。真っ先に目につく。普賢菩薩が乗っている象が思い浮かぶ。あきれるくらい高く長い鼻で、先のほうが垂れて赤く色づいているのがなんとも不細工である。顔は、雪も顔負けするくたいに白く、青みを帯び、額がとても広いのに、顔の下半分もやけに長い。おどろおどろしいくらい顔が長いようである。がりがりに痩せていて、気の毒になるくらい骨張っている。肩のあたりなどは着物の上からでもごつごつしていて痛そうに見える。(p209)

ライトノベルの美少女描写並みの長さと詳細さである。醜さの描写にこれほどの紙幅と筆力を費やすとは。

末摘花の難点は容姿だけではない。着ているものは若い姫君に似つかわしくない「ひどく色あせた襲」「黒ずんだ袿」「立派な黒貂の皮衣」(p209)である。非常に無口で、光君が話しかけてもなかなか口を開かないし、機転も利かない。歌もあまり得意ではないらしく、詠んだとしてもなんとなく野暮ったい。文に選ぶ紙も「もとは紫色だったがすっかり色あせた紙」(p205)や「恋文にはふさわしからぬ厚ぼったい陸奥国紙」(p213)など、センスもいまひとつだ。贈った着物のダサさは、さすがの光源氏も閉口するほどである。

末摘花のどこかズレた言動は、どうやら年取った女房に囲まれていることと関係しているようだ。光君がドン引きした歌や着物は、老女房たちには褒めそやされている。数十年前の古くさい雰囲気を閉じ込めた家に住んでいるから、センスがアップデートできていないのだろう。高貴な女性がなかなか自由に外出できなかった時代状況を考えれば、無理からぬことではある。しかし、末摘花は自ら物事の判断を放棄し、女房たちの世話に頼りきって言いなりになっているようでもある。彼女が一念発起して現代風のセンスを学び、精神的に自立したら事態は好転するのかもしれない。まあでもお金なさそうだし、新たな家庭教師や女房を雇うのは難しいのかな……。

この章でとても気になる人物が、大輔命婦だ。彼女は光君の乳母の娘で、「たいへんな浮気者であるがおもしろいところもある」(p190)女性である。具体的にどのような行動を指して「浮気者」と呼んでいるのかとても気になるが、詳しいことは書かれていない。光君にとって彼女は「恋の気配もなく気が置けない」(p212)存在のようだ。平安時代に男女が友達のように付き合うとは、なかなか面白い関係である(乳母子だからきょうだいのようなものかもしれないが)。大輔命婦の恋愛遍歴についても、光君はよく知っているらしい。惟光も好色のようだし、光君の乳母子はチャラい設定で揃えたのだろうか。

大輔命婦の両親は離婚しており、彼女は父と継母とともに暮らしている。どうやら継母とは折り合いが悪く、時々家に帰りたくないときに末摘花の家を訪れているようだ。お調子者で気が多く家庭環境が複雑な女性、なかなか王道の設定である。なんとなく所在なさを感じている彼女にとって、光君とつるむのは気が紛れてちょうどいいのかもしれない。

若紫~日本のルーツ?

※この記事は2020年4月26日にnoteで公開したものです。

 

 

www.hanmoto.com

若紫の章は、高校の古典でよく扱われる文章だ。

「雀の子を犬君が逃がしてしまったの。籠を伏せてちゃんと入れておいたのに」(p144)

という有名な若紫の初登場シーンはもちろんだが、

命婦は脱ぎ捨てられた直衣を搔き集め、呆然と悲しみに暮れている光君に渡し、無言で帰りを促す。(p163)

という藤壺との事後のシーンまでなぜか記憶に残っている。当時の古典の先生が「もう辛抱たまらなくなってばばっと服を脱いじゃったのよ!ちゃんと文法を勉強してこの性急さを読み取れるようになってね!」みたいなことを言っていた気がする。なぜ高校生がこんな惚れた腫れたの物語を学校教育で読んでいたのだろうかとつい思ってしまうが、それはこの物語文学こそが己の文化社会のルーツだからに他ならない。それが無責任で打たれ弱い男が女を抱きまくる物語であろうとも直視する必要がある。現代の高い地位にいる男性たちの無責任さを考える一助にもなるだろう、たぶん。

改めて若紫の章を通読してみると、最初に後の明石の君を思わせる女性の噂話があることに驚く。明石の君は紫の上と並ぶ源氏物語の二大ヒロインだが、初登場も同じだったのか。

ここで光君のお供たちが「明石なんて田舎」(p143)と言っているが、現在の明石は開けた街である。駅前に城跡があり、坂道をのぼった先に市立博物館があり、人出が多い。しかし、東京育ちの私は光源氏の須磨流しを読んで、須磨はものすごい僻地だと思っており、須磨で出会う明石の君の「明石」と標準時子午線の通る明石市に関連があるとは露ほども想像できなかった。だから、成人して神戸旅行に行ったときは非常に驚いた。何しろ三ノ宮から山陽本線で少し行ったところに須磨という駅があり、さらに数駅先に明石という駅があるのだ。僻地どころかアクセスが良すぎる。しかも須磨は政令指定都市・神戸市の一区だったし、明石の君の「明石」は標準時子午線の明石市だった。田舎どころか都会である。一体千年間でどれだけ開発されたのだろう。関西の公共投資、恐るべし。いや、私が住んでいる東京の隅っこだって、平安時代は風流を解さない東夷の住むド田舎だったんだろうけど……。

若紫の章は、光源氏藤壺そっくりの幼い若紫をどうにかして手元に置こうとする話である。光君の斜め上すぎる意図に、若紫の祖母や乳母は混乱して「姫はまだ幼く分別もないから渡せない」「源氏の君の意図がわからない」と言う。一方、光君の言はこうだ。

「いい加減などではない、私の思いの深さをどうかご理解ください」(p153)
「これほど幾度もくり返し打ち明けている私の気持ちを、どうして素直に受け取ってくれないのですか。」(p170)

実質的には何も言っていないので会話が噛み合っていないが、情感だけで押そうとするこの感じ、「頑張っているんだから文句言うな」「真剣な気持ちだから付き合って」に通じるところがある。前者は批判を封じ、後者は拒否権を封じる。どちらも支配と隷従の関係をつくる言葉だ。要求の落としどころをつけるための会話の端緒をひらく言葉ではない。そしてこの類の言葉は、現在も家庭内から政治空間まであらゆる場所で飛び交い、当然のように受容されている。光君のこの台詞は、現在の批判に弱く同調圧力が強い日本社会と、糸のようなものでつながっているのかもしれない。その糸が太いのか細いのかどこかに絡まっているのかわからないけど。

夕顔~いろいろな身分の女たち

※この記事は2020年4月20日にnoteで公開したものです。

 

www.hanmoto.com

夕顔はこういう話である。光君は乳母の家の隣の、夕顔が咲く粗末な家に住む女と恋仲になる。素直でひたむきな女に光君はかつてなく夢中だ。しかし女はいつまでも身元を明かさない。光君は女がいつか突然姿を消してしまうのではないかと不安になり、自分の別荘に彼女を連れて行く。しかし女はそこで突然死してしまう。うろたえた光君は、お供の惟光の協力を得ながら、内密のうちに葬儀を済ませる。そして、女が以前頭中将と恋仲になり子供をもうけたものの失踪した女であったことを、女房であった右近から明かされたのであった。

印象的だったのは次の文章だ。

これまで、こんな身分の女(筆者註:空蟬を指す)のことまでは考えることもなかったのに、先立っての雨夜の品定め以来、いろいろな階級の女を知りたいと思うようになった光君は、ますます興味を抱くようになったのだろう。(p98)

この引用部分、光君はホモソーシャルなコミュニティに影響を受けて多様な女と寝てみたくなったという意味であるが、それ以上に、これからは気の多い光君を通して多様な女たちの個々の心情と事情を描いていくという著者の宣言のようにも読める。『源氏物語』の真の主人公は女たちであり、光君は彼女たちを見るスコープ装置なのではないかと思わせる描写が早くも登場している。スコープにしてはキャラが立っているが。

また、この夕顔の女は、雨夜の品定めで頭中将が「頼りないおっとりした女」として語っていた女のことである。彼女の行く末が明かされるという意味で、この章はまず伏線を回収するためのエピソードと言える。

夕顔の女が住んでいるのは粗末な小さい家である。しかし女や女房たちは教養があるらしく、香を焚きしめた扇を差し出したり、気の利いた歌を美しい字で書きつけたりする。光君はこう思う。

かつて話に出た、頭中将が相手にもしなかった下の下の者の家ながら、意外にもその奥にはうつくしい人がいるかもしれないと思うと、光君の気持ちは弾んでくるのだった。(p97)

おそらくこれは雨夜の品定めの左馬頭の発言に対応している。

ところで、人が住んでいるとも思えない、葎や蓬の生い茂る荒れた家に、意外なことに見目麗しい姫がひっそりと暮らしている、なんてことがあったら、それこそ珍しいという表現がふさわしいですよ。(中略)たしなみがあるように見えたら、実際はそれがたいしたことのない才芸だとしても興味を持ってしまいますよ。まったく欠点のない女を選ぶというなら話にもなりませんが、これはこれで、なかなか捨てがたいとは思いませんか(p38)

また、光君はこのとき六条の君のもとにも通っているが、身分の高い彼女の家はこんな感じだ。

木立や植え込みなど、格段に趣深く、ゆったりとした優雅な暮らしぶりがうかがえる。光君を迎える女君は近寄りがたいほどに気品に満ち、光君は先ほどの夕顔の家などすっかり忘れてしまう。(p96)

夕顔の家とは対照的である。

六条の君は思い詰める性分で、後々生霊になるキャラクターである。おっとり素直な夕顔の女とは対照的であるが、夕顔の女も光君のいないところでは思い悩んでおり、男に悩まされるのは共通しているようにも思える。

また、この章では空蟬との関係にも区切りがつけられる。空蟬は夫とともに任国の伊予へ引っ越すことになり、光君は密かに餞別と手紙、そしてこっそり持ち帰った彼女の小袿を送る。空蟬はそれについて返歌を送り、光君との関係を終わらせた。空蟬の夫は受領、つまり中流貴族であり、この章には上流・中流下流それぞれの女が登場しているということになる。雨夜の品定めでは男たちが階級ごとに女を批評していたが、夕顔の章はそれぞれの階層にいる女たちの実際を描いた章ともいえそうだ。

帚木・空蟬~立場と恋愛

※この記事は2020年4月16日にnoteで公開したものです。

 

www.hanmoto.com

前回の雨夜の品定めでやたらハッスルして疲れてしまい、続きの感想を書かずに一気に夕顔まで読んでしまった。源氏物語面白いな。しかし文章を書くのはなかなか大変で、こんな更新状況である。

さて、空蟬と光君のエピソードである。空蟬は受領・伊予介の妻だ。元々は父に宮仕えを望まれていたが、その父が早くに亡くなってしまったため、伊予介の妻になり、幼い弟・小君とともに暮らしている。彼女は生活基盤を夫の伊予介に依存しながら、幼い弟の将来を背負っているのだ。平安時代においては有力な親や親戚などの”後ろ盾”が重要だったことを鑑みると、空蟬はかなり不安定な立場に置かれている。伊予介の息子・紀伊守の「ことに女の運命は浮き草のように不安定なのが気の毒に思えます」(p63)という台詞の通り、平安女性のライフコースは綱渡りに近かったのだろう。まあ今もそういうとこあるけど……。

そんな空蟬に光君は夜這いをかける。彼女は拒否するものの、押し切られてしまう(どうも女は拒否できなさそう)。しかも一度セックスした後の連絡係に弟の小君を使ったりする。空蟬は光君の好意を嬉しく思いつつも、不倫が露見したときの生活や評判を考えて肝を冷やす。現代だと煮え切らないとか下衆だとか言われるかもしれないが、当時の女性には独立して働いて生活するという選択肢はほとんどなかったのだから、空蟬の心情は当たり前のものだろう。彼女は光君に逢わないと決め、冷たい返事をし、小君の手引きで通ってきた光君から逃れる。しかし光君は空蝉のつれなさにかえって執着するのだった。『かぐや姫の物語』の帝じゃん!!

さらに光君は小君をそばに寝かせてこう言う。

「こんなに人から冷たくされたことはないよ。今夜はじめて、こんなにつらいことがあると思い知らされて、恥ずかしくて、生きていかれそうもない」(p79)

打たれ弱すぎである。

大学の授業で、「光源氏は女性に恥をかかせなかったからモテた」と聞いたことがあるのだが、どちらかというと自分の面子を気にしまくっている気がする。空蟬は恥をかくどころか立場が危ういし、何なら命の危機でもあると思うんだけど。

また、小君に対する発言も気になる。

「きみはかわいいけれど、あの冷たい女の弟なんだから、いつまで仲よくできるかわからないよ」などと真顔で光君が言うので、小君はつらくてたまらなくなる。(p87)

かわいがりつつも気まぐれに脅すようなことを子供に言うの、非常に良くない。ただでさえ姉との板挟みでおろおろしているのである。というか、大人の恋愛に子供を巻き込むなよ……。また、小君にとって光君は優しいお兄さんである上に、宮仕えの後ろ盾になってくれるかもしれない存在であることが、さらに状況を難しくしている。しかし光君は空蝉のつれない態度を嘆いたり、男として面目が立たないとむくれたりするばかりだ。立場のことをあまり考えないでいられるのは、彼の立場が盤石だからである。

光君はもう一度夜這いをかけるが、同じ部屋にいた別の女性・軒端萩とセックスすることになってしまう。巻き込まれた軒端萩も不憫である……。

やってられない

※この記事は2020年4月14日にnoteで公開したものです。

 

4/13(月)

安倍首相が星野源『うちで踊ろう』に便乗した動画を投稿した。画面の左半分には弾き語りの星野源、右半分は家でくつろぐ安倍晋三、緊急事態宣言の焼き直しみたいなコメント。当然この投稿は批判を浴びた。総理大臣が家でくつろいでいる場合か、ライブやコンサートの開催を補償なしで自粛させといてアーティストの活動を搾取するとは何事か、今まで投稿されたコラボ動画の価値を著しく毀損している、等々。これらの批判はもっともで、私もヘドバンしながら同意する。菅官房長官「いろんな見方があるが、過去最高の35万以上の『いいね』など多くの反響をいただいた」という発言など、反響の中身の精査が雑すぎて辟易してしまう。

あの動画を見て印象に残ったのは、安倍総理の背景にある高価そうなソファやランプやドアだ。それらすべてがさも当たり前のように配置されている。政治家というのは激務のはずなのに、部屋が荒れている様子はない(整ったところだけ映している可能性もあるけど)。

私は総理の家具を見て、去年の台風15号のことを思い出した。あの台風は千葉県に甚大な被害をもたらした。私は隣の東京在住だが、当時家の窓ガラスは暴風が叩きつけられて、とんでもない轟音を立てていた。そのうち窓ガラスが割れてしまうんじゃないか、そしたらこの家も吹き飛んでしまうんじゃないかと考え始めたらどうにも眠れない。結局スマホアプリで台風の進路や近所の川の水位を確認したり、避難ルートをシュミレーションしたりを繰り返して、一睡もしないまま夜を明かした。私は無事だったが、エアコンが壊れていた。

台風15号が去った後、テレビのニュースが報道したのはまだ全容がわからない千葉の惨状と、内閣改造だった。信じられなかった。すぐに被害状況を確認して支援策を打つべきなのに、その仕事をする省庁のトップを今変えるなんてありえない。

西日本豪雨の当日は、安倍総理含む自民党幹部たちは飲み会をしていて初動が遅れ、大変な批判を受けた。対応すべきとんでもない災害が起こっているのに飲み会をする政治家たちの神経が信じられなかったが、一方でもしかしてこの人たちは一都三県で災害に遭わないと動けない程度の当事者意識しか持ち合わせていない連中なのだろうかとも考えた。しかしまさに台風15号は千葉県を中心に一都三県へ被害をもたらしたのだ。なのに内閣改造である。昨夜東京であの暴風雨の音を聞かなかったのだろうか。あの轟音を聞いていたら、不要不急の人事異動なんてやっていられないはずだ。

しかし今回のコラボ動画で、あのときの疑念がすべて腑に落ちた。安倍総理の家はきっと私の建売住宅とは比べ物にならないほど大きく頑丈で、立地が良く、台風15号の暴風が叩きつけてもこの世の終わりみたいな音はしないのだ。そういう家だから、立派なドアがついていて、間取りを気にせず高価そうな家具を置けて、火災保険の要綱にビクビクせずに額縁を飾れるのだ。これが格差である。もちろん、金持ちのエスタブリッシュメントであること自体は悪いことではない。問題は、この世襲議員の総理大臣が、自分の暮らしぶりを飛び抜けて豊かだと自覚しないまま、無邪気に全世界へ公開したということだ。まるでこれが普通の真面目な日本人がするべき生活とでも言うように。己の立場を社会的に相対化する視点を持たない人間に、政治家としての資質などあるわけがない。あらゆる階層への想像力も知識もない連中が寄り集まってできた今の政権だから、どんなに大きい災害が列島を襲い住民が苦しんでも何食わぬ顔で飲み会も組閣もできるし、支援が遅れても平気な顔で議会の椅子に座っていられるのだ。

昔、大学の授業でこんな文章を読んだ。著者は学習院に通っている庄屋の息子で、関東大震災で甚大な被害を受けた。汚れた格好でもなんとか登校すると、クラスメイトたちは綺麗な格好で、著者のことをくすくす笑っている。庄屋の著者はあまり地盤の良くない場所に住んでいるから被害が大きく、一方クラスメイトたちは華族で地盤の良い場所に住んでいるから被害が少なかったのだ。自然災害は必ずしも人間に対して平等に接するわけではない。より貧しく弱い者の被害ほど大きくなりやすい。そういう弱肉強食の自然の論理に対抗するために、人間は社会をつくったのだ。

今の政権は社会なんてないふりをして、弱肉強食を掲げながら、社会の中でできた果実を盗んでかじりながらくつろいでいる。そんな状況で大人しくしていられるわけがない。奇しくも今日、台風15号の被害地域に再び大雨が降って避難勧告が出た。コロナ禍での避難所の整備方針も、この政権はどうやら丸投げのようである。そちらがそのつもりならばこちらも、うちにいながら「やってられない」と何度も声を上げる。