【感想】レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』左右社

※この記事は2020年6月9日にnoteで公開したものです。

 

 

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女性の意思や経験を無視して独りよがりな講釈を垂れる男性たちに焦点を当てた『説教したがる男たち』を含む、フェミニズム・エッセイ集。日常で経験するささやかな違和感から国際ニュースまで、あらゆることの根底に潜む男女間の権力格差を著者が思索によって暴き出している。

5年ほど前の日記を読み返していたら、「日本と日本人に絶望している」と書きつけられていた。国内で長期の一人旅をしていた頃のメモである。自分の2倍以上生きている人はそれなりの知見を持っているはずだという青臭い思い込みは、このとき行く先々で年かさの男性たちに説教や講釈をぶつけられたおかげで、跡形もなく粉砕された。居酒屋で隣り合わせた男性は「離婚はアメリカの悪習、夫婦は何があっても最後まで連れ添わなければいけない」と歴史修正と道徳規範がまぜこぜの講釈を垂れ、バスの男性運転手は「出産は若いときに済ませた方がいい、親が年取っていると子供がかわいそう」と余計なアドバイスをし、通りすがりの店の男性オーナーは私の予定を無視して執拗に旅行ガイドを買って出た。彼らは一様に押しつけがましく、聞き耳を持たず、価値観が驚くほど古く硬直していた。そうして私を「女の子なのに一人旅なんてえらい」と男に近い女として褒め、女だから無知だと決めつけてバカみたいな自説をうっとりと語り、女に予定も意思もないとばかりに自分本位な要求をぶつけて時間とエネルギーを奪い続けた。それらひとつひとつは大したことでなくても、積み重なると心身ともに疲れ切って、街を歩き回ること自体をためらうようになってしまう。私にとって「旅先での出会い」は女性差別との出会いだった。21世紀だというのに、一人で歩く女に説教したがる男たちがこんなにたくさんいるなんて、もう日本社会はおしまいだと思ったが、本書を読むとこれは日本だけの話ではないようだ。日本よりも女性の地位が保障されているように見えるアメリカに住んで、何冊も自著を出して賞を獲り、文筆家として権威になりそうなキャリアを辿っている女性ですら、男性に見当違いな講釈をぶたれている。島宇宙の外にも地獄はあるらしい。

6番目のエッセイ『ウルフの闇』は、さまよい歩くことと女性についての文章である。ベンヤミンが論じたように、匿名の個人として都市空間を目的なく歩き回ることは、非常に近代的な経験であった。またソローのように、自然界を散策することに価値を見出した者もいる。戸外をさまよい歩くことは、内省を深め想像力を活性化する手段だったのだ。例えば、ソローは『歩く(ウォーキング)』というエッセイでこう書いている。

私は、一日に少なくとも四時間——たいていはそれ以上——、いっさいの俗事から完全に解放され、森を通り抜けたり、丘や野原を越えたりして、あてどもなく散策するようにしていないと、自分の健康や生気を保つことができないような気がする。(H.D.ソロー『市民の反抗 他五編』岩波文庫, p110)

『歩く(ウォーキング)』には一箇所だけ、女性に言及した部分がある。

男性よりもさらに家のなかに閉じ籠りがちな女性が、そんな暮らしにどう堪えているのか、私には知るよしもないが、彼女らの大半はたえているどころか身を横たえているのではないかと疑いたくなる根拠を、こちらはちゃんともっている。(同上, p112)

ソローは当時のアメリカ女性の置かれた状況をどのくらい理解していたのだろうか。彼女たちが男性より家のなかに閉じ籠りがちだったのは、女性が「いっさいの俗事から完全に解放され」ることなどありえず、また戸外は男性仕様に誂えられていて、女性たちにとっては危険だらけだったからだろう。都市空間にせよ自然界にせよ、この時代に戸外を自由に歩き回ることは男性の特権だった。家に閉じ籠ることこそが、最近まで女性が最も安全でいられる(かもしれない)方法だったのである。

21世紀の現在、女性が家を出て外を歩き回るのは一般的なことになった。ここ200年ほどで女性は多くの自由を手にしたように見える。しかし、制度的平等の下にあっても、賃労働と家事労働に圧し潰され、自分のための散歩をする暇もない女性はいくらでもいる。2番目のエッセイ『長すぎる戦い』に書かれているように、レイプ等の性暴力の危険はいつだって女性に付きまとっている。日本の地方都市をさまよい歩いた私は、女性であるせいで匿名になれなかった。男性のうんざりするような講釈はもちろん、飲食店でも博物館でも道端でも、男性から無遠慮にじろじろ見られることは日常茶飯事だった。未だに女性は男性ほど自由ではないのだ。女性の自由な行為の責任と帰結は、男性のそれよりずっと重い。

20世紀を生きた作家、ヴァージニア・ウルフは『ストリート・ホーンティング』というエッセイで、冬の黄昏どきに一本の鉛筆を買うためロンドンの街へ出かけた経験を書いている。まだ女性が街を歩き回ることが珍しかった時代に、女性作家が都市の匿名性と自由を、頭の中でにわかに勢いづいて繰り広げられる思索を、つまり実質的に男性の特権だった近代的経験を語っているのだ。彼女の思索と作品は、現代の女性をも自由の闇へ誘ってくれる。著者はウルフという作家をこう評す。

ウルフが常に称える解放は、公的でも制度的でも理性的でもない。大事なのは見慣れたもの、安全なもの、既知のものを超えて、もっと広い世界へ到達することだ。彼女が求めた女性の解放は、単に制度の中で男性がしていたことを女性もできるようになる(いまでは実際そうなっているが)だけではなく、女性が地理的にも想像の中でも、真に自由に動き回れるようになることでもあった。(レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』左右社, p119)

自分ひとりの時間を十分に確保して、誰にも気にされず、自己防衛に気を取られず、未知の暗闇をさまよい歩けたらどんなにいいだろう。私はそういう自由が欲しい。彷徨と冒険はまだ女性へ完全に開かれていないもののひとつだ。これらの男女平等は制度だけでは保障できない。自分の経験を語り、怒りや違和感を自ら描写することが、さらなる女性解放への布石になる。男性たちの見当違いの説教が「マンスプレイニング」と名づけられたことは、この社会に根強く存在する男女格差の一端を炙り出した。そのおかげで、私は一人旅で味わった苦い経験や感情を自ら殺さずに済んだし、街をぶらぶら歩き回る自由と希望を捨てないでいられる。「言葉は力だ」(p158)。