『戦国鍋TV』レビュー③

最近、天正遣欧少年使節のことを考えては胸が締め付けられている。きらきら輝く少年たちに待ち受ける運命をすでに知っているからだ。うう、つらい。つらいよう。つらすぎるから、とりあえず彼らのきらめきをしばらく直視しよう。

戦国鍋TV』での天正遣欧少年使節は、「九州のキリシタン大名がプロデュースする、ヨーロッパ帰りのフレッシュなアイドルユニット」だ。メンバーは、圧倒的な華を見せつけてくる伊藤マンショ(相葉裕樹)、しっかり者だが腹に一物抱えていそうな千々石ミゲル村井良大)、無口だが優秀な原マルチノ菊田大輔)、美形でセクシーな中浦ジュリアン井深克彦)。非常にバランスの取れたメンバー構成だ。細かいラメが織り込まれた水色のジャケットと白いパンツを身につけて、まるで王子様のような佇まいである。しかし、やはりそこは『戦国鍋TV』、彼らの行動にはどこかおかしみがにじむ。彼らは一様に所作がゆっくりしていて、ルー大柴のような英語まじりの日本語を話す(勉強していたのはラテン語のはず)。ミゲルの「マカオでwindをwaitしていた」という台詞には思わず吹き出してしまった。

村井良大は、SHICHIHON槍のときよりも少し大人びている。可愛く元気なかーくんとは打って変わり、少し低めで透明感のある声と落ち着いた所作でミゲルを演じていた。笑い方も違う。かーくんはにぱっと満面の笑みを浮かべるが、ミゲルは真顔を崩さない程度にそっと微笑む。まるで別人だ。村井良大は本当に上手い。

ミゲルはムードメーカー的な役割も果たしているのか、途中から自己紹介の前に「君を僕だけのものにしたい」とか「運命の赤い糸って、信じる?」とか、気障な台詞を挟み込むようになる。また口下手なマルチノに代わってゴアでの功績を話したり、ジュリアンと仲が良いのか頻繁に小声でおしゃべりしたり、面倒見も良さそうだ(過干渉なのかもしれないが)。

マンショとミゲルにはソロダンスパートが割り当てられている。マンショはリーダーらしく正統派なダンスを見せてくれる。相葉裕樹は踊るとスタイルの良さがより際立つ。とても舞台映えのする俳優だと思う。対してミゲルはパントマイムのような不思議なダンスをする。あれが村井良大がプロフィールの特技欄に書いているアニメーションダンスというものなのだろうか。とにかく肩甲骨が柔らかい。

なんとなく、実際の天正遣欧少年使節もこんなふうにきらきらしていたのではないかと思ってしまう。彼らは皆名家に生まれ、セミナリヨで当時最先端の教育を受けたエリートだ。その上誰も行ったことがないヨーロッパ大陸への切符を手にする。周囲の注目を集めていたのではないか。

彼らのデビューシングル『GO! 天正遣欧少年使節』は、ヨーロッパ渡航への期待の高まりを表した歌だ。

この海の向こう 何が待っていても

十五夜に(1582)希望の船で漕ぎ出そう!

ローマ教皇 スペイン国王

メディチさんにも会えるかな

リスボン ミラノ フィレンツェ マドリード

舞踏会にも出れるかな

1582年といえば本能寺の変だ(私は「いちごパンツの織田信長」で覚えた)。少年使節がヨーロッパへ旅をしている間に、日本では織田信長が死に、豊臣秀吉が天下を取り、キリスト教への風向きは変化した。彼らは日本におけるキリスト教文化の絶頂期に船を漕ぎだしたのだ。ヨーロッパで異文化に接し多くを学んだ彼らは、帰国後次第にキリシタン弾圧に晒されることになる。史実を踏まえると、この歌詞がより儚いきらめきを放って見える。

天正遣欧少年使節は公開収録中に突然解散を報告する。ラストライブの後、「天正遣欧少年使節は後年キリシタン弾圧により数奇な運命を辿ったとされている」というテロップが流れる。彼らに何があったのか。

私は九州北部に縁があって、周辺のキリシタン史跡を何度か訪れたことがある。長崎や天草の教会群は最近世界遺産に指定されて有名になったが、あの立派な教会が建てられたのは明治維新の後、禁教令が解かれてからだ。それまでキリシタンはずっと苦難のうちにあった。九州北部には摘発されたキリシタンが拷問にかけられている絵画や、殺されたキリシタンが埋められた首塚と胴塚、隠れざるを得なかったキリシタンの持ち物や集会場が、至るところに残されている。あそこに行くと、日本がずっと「ひとつの国」だったなんて口が裂けても言えなくなる。むしろ単一性を無理やり作り出そうとして多くの人間を殺してきたのが日本なのだ。その犠牲者の一人が中浦ジュリアンだ。彼は穴吊るしの刑にされて死んでいる。拷問に耐えかねて棄教する者も多かったのに、彼は最期まで信仰を貫いたのだ。

 一方、天正遣欧少年使節で唯一棄教したのが千々石ミゲルである。『戦国鍋TV』でミゲルが持ち物に「千々石清左衛門」の名前を記したシールを貼っていたことや、彼が最初にグループを脱退しようとしたことは、この史実のアレンジだろう。wikipediaによれば、彼はヨーロッパ滞在中からキリスト教徒による奴隷制度などに疑問を持っていたという。キリシタン弾圧による棄教ではないのなら、キリスト教に対して彼なりに思うところがあったのは間違いないだろう。しかし棄教しても心穏やかに過ごせたはずもなく、ミゲルは大村藩内の争いに巻き込まれて命を狙われてしまう。最近ではミゲルの墓らしきものが見つかり、棄教していなかったとする説も浮上しているようだが、真実はわからない。ミゲルの考えていたことが知りたい。

あまりにも気になりすぎて、とうとう文献を手に取ってしまった。若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』だ。

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上下巻合わせて1000ページ以上あるのに慄きながら読み始めたのだが、プロローグから引き込まれてしまった。若桑みどり西洋美術史の研究者だが、日本の敗戦からちょうど50年経ったある日、一つの問いが内心に浮かぶ。

「東洋の女であるおまえにとって、西洋の男であるミケランジェロがなんだというのか?」(上巻、p13)

若桑みどりは、戦後再び日本に移植された西欧型の知識体系の中で学び、キャリアを積んだ研究者である。日本にイタリア美術を紹介した功績もある。しかし、どれだけ研究をしても彼女は「西洋美術を理解する東洋人の女」でしかない。「日本人として西洋と日本を結ぶことを研究したい」と思い立ち、そのためのテーマを探し始める。非常にポストモダン的な思索だ。西欧型のエリート教育を受けた非西欧人として、今まで学んできた知識の中で何を忘れ去ってみるべきなのか。己のうちを探っていくと、1961年に自身がイタリア政府給費留学生として船で(!)ローマへ渡った体験が思い出される。船の客室係はコルシカ人で、フランス語やイタリア語が流暢な日本人留学生たちを名誉白人のように扱っており、若桑もその仲間に入れられていた。彼は若桑のルームメイトが質素で不潔な中国の少女であることを申し訳なく思っており、若桑自身も彼女が疎ましかった。しかしある経験をきっかけに若桑の姿勢は変わる。

あるとき、彼女は、私が寝過ごして朝食を食べそこねるのではないかと心配して私をゆり起こした。私は英語もフランス語もイタリア語も通じないこの中国娘に辟易して、紙片にでたらめな漢文で「われ眠りを欲す」と書いた。彼女は大笑いをして紙片をとり、「わが名は黄青霞」と書いた。私は起きて彼女を見たが、私たちがとてもよく似ていることにそのときはじめて気づいた。「われは香港の祖母のもとを出て今サイゴンの父母のもとへ行く。汝いずくより来たり、いずくへ行かんと欲するや」。「われは日本より来たり、ローマへ行かんと欲す。かしこにて学を修めることを願う」。青霞は私の肩を叩いて紙片を見せた。「われ汝の成功を祈る」

サイゴンで黄青霞は手をふって降りていった。メートル・ドテル(筆者注・客室主任のこと)は犬を追っ払うようなしぐさで「マドマゼル、追っ払いましたよ!」と言った。でも、私は傷ついた。青霞は私だったからだ。まぎれもなく私は黄青霞の「仲間」、「黄色い」東アジア人なのだ。その日から私は名誉白人の仲間には入らなかった。この経験を私はひそかに、「わが心の黄青霞」と呼んでいた。そして筆談の紙片をたいせつにもっていた。でもそのときは、それが自分にとってどういう意味があるのかをわかっていなかった。(上巻、p15)

この文章を読んだとき、私は思わず泣いてしまった。今もキーボードを叩きながら泣いている。

若桑よりずっと卑近な例ではあるが、私にも似たような経験がある。小学校高学年の頃、通っていた小学校に韓国の小学校教師が視察に来た。事前に担任教師から韓国語のあいさつを仕込まれていたのだが、それだけでは足りないだろうと思った私は前日に和英辞典を読んだ。外国人と話すなら英語と思い込んでいたのだ。当日はいくつかのグループに分かれて一緒に折り紙をしたが、もちろんその場で英語が出てくるはずもない。通訳はいたが一人だけ、別学年の生徒のお母さん(韓国出身)で、児童のお世話係も兼ねており、別のグループにかかりきりになるとこちらのグループにはなかなか来ない(今思い出すとあのお母さんにちゃんと給料が出ていたのかが気になってしまう)。仕方ないのでみんなで手振り身振りでのコミュニケーションを試み、韓国の先生も職能ゆえにこちらの意思をすぐに読み取ってくれたのだが、次第に漢字での筆談が一番正確で速いことに気が付いた。韓国の人も漢字を使うのだ。そのとき初めて、日本と同じく韓国も、中国から伝わった漢字に大きく影響を受けてきた地域だということに気が付いた。アルファベット以外の文字でコミュニケーションを取れる外国があるのだ。不思議な感動がじんわり身体に広がった。もちろん、韓国における漢字使用は中国や日本からの支配と無関係ではないし、日本人である以上そのことに自覚的になる必要はあるだろう。現在の韓国では漢字教育をしていないところも多いそうだし、漢字で筆談ができる韓国人は当時より少ないかもしれない。それでも「グローバル化」旋風が吹き荒れ徹底的な英語教育が急務だと騒がれていた当時、外国人と漢字でコミュニケーションを取れるという発見は、私に小さな種を植え付けた。

その後、私は大学で政治思想史を勉強した。厳密に言えば西欧政治思想史だ。イギリスやフランスやドイツやイタリアの思想的蓄積とひたすらに格闘し、理解しようと試みた。民主主義とは、自由主義とは、社会とは、ロゴスとは。アルファベットから漢字とカタカナに翻訳された言葉と毎日取っ組み合う。学生たちの知的格闘は、そのまま日本の200年前と重なった。アジア的土壌に西欧思想の苗を植え付けたのが日本の近代化だったのだ。しかしこの苗は200年の間でどれだけ根を張ったのだろうか。「民主主義」も「社会」も、どこかズレた使われ方をしているように思えてならない。私が学んだ政治思想史は日本の誰にも通じないような気がして落胆することもある。私は若桑の足元にも及ばない、留学したこともないただの学部卒だが、「西洋美術を理解する東洋人の女」という感覚は、なんとなく想像ができるのだ。

そして、もしかしたら千々石ミゲルも似たような感慨を抱いたのではないかと想像する。近代の土台がつくられ始めた頃の西欧で学んだ文化や思想は、10代のミゲルに大きな影響を及ぼしたことは間違いない。では生まれ育った日本との齟齬についてはどう考えていたのだろう。このことは、きっと帰国後にミゲルがとった政治的立場と無関係ではないはずだ。

兎にも角にも、『クアトロ・ラガッツィ』を読んで彼らの足跡を辿りながら考えるほかない。しかしここまで私の頭を回転させる『戦国鍋TV』の天正遣欧少年使節、恐ろしい……。