逃げない

脳みそ夫の『OL聖徳太子』というネタがある。なぜかOLをしている聖徳太子が「飛鳥商事」という会社で働き、同僚の蘇我氏物部氏の乱を収めたり、上司の推古天皇の噂話をしたりするコントだ。OL聖徳太子蘇我氏のことが気になっているのだが、彼の話をするときは必ず「Sくん」と呼び、その後「あ、Sくんって蘇我氏のことです。イニシャルにしてる意味ない(笑)」と言うのがお決まりになっている。少しでも日本史を勉強した人なら、聖徳太子にまつわるイニシャルSの人物といえば蘇我氏だとすぐにわかるだろう。『戦国鍋TV』出演者Mといえばかの俳優であるのも然り。Mはミスター戦国鍋である。こちらもイニシャルにする意味はないのだ。それでもイニシャルで書いていたのは、名前を何度も打ち込んでいたら本当にハマってしまいそうで怖かったからである。

推しを推すとはどういうことなのか、最近考えている。「推し」という言葉はここ10年ほどで人口に膾炙した新しい言葉だ。AKB48をはじめとする大人数のグループアイドルが乱立したときに使われ始めた記憶があるから、「推し」とはつまり「自分が応援している人・グループ・モノ」という意味だろう。 

思い返してみれば、10代の頃から常に「推し」に頼って生きていた。当時は「推し」という言葉がなかったから、「推し」に相当する存在と書いたほうが正しいかもしれない。最初の「推し」はあるジャニーズアイドルで、その後は漫画のキャラクターたちだった。彼らはエンターテインメントの教科書だった。シングルCDやアルバムCD、オリコンランキングの存在や、雑誌連載がまとまって単行本になることを教えてくれたのは彼らだったし、ストーリーの型や元になった古典や神話を知ることができたのも、人間の感情の動きについて深く考えるようになったのも、全部彼らのおかげだった。彼らがいたから、自分の興味の赴く方向に手を伸ばすことができたし、自分の身を危険に晒すことなく人間の欲望や悪意を知ることができた。一方で、推しの発言や作品に違和感を覚えても、それを言語化することはできなかった。まともな批判をするにはあまりに無知だと自覚していたし、何より反対意見を言わずに褒めることが「好き」の表現だと思っていたからである。

20代前半の頃は、ある女性アイドルグループを推していた。彼女たちは皆ダンスが上手く、非常にパワフルなパフォーマンスをするアイドルで、彼女たちのステージはいくら見ても見飽きることがなかった。しかし彼女たちの活動を全部追うのはとても大変だった。新曲のCDやライブはもちろん、各メンバーのブログ、ファンクラブ限定のグッズや動画、テレビ・ラジオへの出演、タイアップキャンペーンやイベント等々、女性アイドルというのは供給がとにかく多い。ファンの友人たちは精力的に活動を追っていたが、当時私生活で精神的に疲弊していた私には難しかった。それでも活動のすべてを追わないと推していることにならないような気がして、焦燥感だけが募った。結果、余計に疲れてしまい、次第にフェードアウトしていった。

20代半ばの頃、一人旅で泊まったホテルのテレビで見たKis-My-Ft2(以下キスマイ)に目を奪われた。若い女の長期国内旅行は中高年男性の説教や視線との戦いで、個人的な領域を土足で踏み荒らされる度に精神が磨り減っていった。次第に男性を見ただけで警戒するようになり、気を張りすぎて外にいるだけで疲れてしまう。そんなとき、シングルルームのテレビの中でキレキレのフォーメーションダンスを踊るキスマイは、私にとって唯一の心の拠り所だった。キスマイのことを考えたら、張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩んだ。好奇心のエンジンが再び温まり、街を歩く勇気が湧いた。すっかりキスマイが好きになり、旅行から帰ってすぐアルバムCDを購入した。今度は自分のペースで推そうと思った。可能な範囲で活動を追って、彼らのパフォーマンスだけ見ていよう。癒されたいから全肯定も批判もしない。疲れたら無理に追わなくてもいい。そういうスタンスでいたので、直後の数年はCDもDVDも出演番組も全部追っていたが、だんだん追いつかなくなり、最近はゆるい応援にとどまっていた。

しかし、それではだめだったと痛感する事件が起こる。キスマイメンバー2人が主演と原案を務めた配信ドラマが、男性の友情を深めるために女性の胸を触ろうと奮闘する内容だったのだ。予告トレーラーが解禁された当時、タイムラインはこのドラマの配信中止を求めるハッシュタグで溢れかえった。ハッシュタグに添えられた批判も真っ当な内容ばかりだった。世の中には性暴力被害者がごまんといるのに、その被害をおもちゃにするような内容なのだから、批判されて当然である。何なら私だって痴漢被害者だ。それでも私は沈黙してしまった。気の抜けた茶の間ファンが何を言えばいいかわからなかったのもあるが、とにかくショックだったのだ。

一方で、いつかこういうことが起こるんじゃないかとなんとなく思ってもいた。原案に関わったメンバーは、「男なら」「男としては」を枕詞に話すことが多い人だった。男らしさに固執している素振りもなんとなく見てとれた。それでもダンスパフォーマンスが素晴らしいからいいやと目をつぶっていた。でもそれではだめだったのだ。推しグループの作品がこれ以上傷つけてはいけない誰かを、そして自分自身を傷つけてしまう可能性を、私は無視していたのだ。違和感があるのならちゃんと言語化すべきだった。推しと正面から向き合って批判する勇気を持つべきだった。推す責任について考えなければいけなかった。癒しだけを求めている場合ではなかったのだ。

しかしこの一件を知っても、私はキスマイのことを嫌いにはなれなかった。やっぱりパフォーマンスは素晴らしいし、トークにも愛嬌を感じてしまう。簡単に切り捨てられないほどに、私は彼らに魅力を感じていたのだ。それでも性暴力を弄ぶようなドラマを作った事実はどうしても脳裏を横切る。どんな態度でいればいいのかがわからない。自分自身が批判や対立を含む緊張関係に慣れていないことを痛感させられた。心強かったのは、例のドラマをちゃんと批判をしている人たちの中に、精力的なキスマイファンが多くいたことだ。私のような気の抜けたファンよりも相当つらいはずなのに、自分の言葉を紡いで性暴力の軽視に抵抗している。応援と批判を両立させようとしている。これこそが推す側としてあるべき姿ではないか。私もそうありたい。

批判は非難とは違う。批判は相手の言葉をよく聞き、成果物を十分に吟味した上で自分の意見を示し、相手に思考を促す行為だ。批判された側も変化(あるいは不変)をもって批判に対峙し、今度は先に批判した側に思考を促す。批判とはつまり思考のコミュニケーションなのだ。悪い点をあげつらって責め立てるだけの非難とは別物である。私は作品を通して推しとコミュニケーションを取りたい。そのためには、まず私が違和感を見逃さずに言語化できるようにならなければいけない。対立を恐れない胆力も必要だし、批判の対象を人格ではなく行為に限定するのも重要だ。憧れや好意で批評眼が曇ることも計算に入れる必要がある。そして何より、推しの他者性と、他者を魅力的に感じてしまう自分を勇気を持って受け入れることだ。社会は異質な他者同士の関わり合いで発展してきた。他者の言動に違和感を覚えても好意が持続してしまうのは、きっと当たり前のことだ。異質性を無視せず、排除せず、正面から向き合うことでつながりたい。

さて、これから私は俳優Mとイニシャルで書くのをやめようと思う。批判精神を持ちながら堂々と推すのなら、正面切って名前を書くべきだと考えたからだ。彼が批判の届く人間だと信じたい。私は村井良大さんを推します。