『ローズのジレンマ』を観た

意を決して『ローズのジレンマ』のチケットを取ってから1ヶ月、私はこの日のことばかり考えて生活していた。出演者インタビューを読み漁り、『ローズのジレンマ』をより理解するための参考文献を検索してリストアップし、当日に最適であろう服装とメイクを考え、劇場までの道順を何度もシミュレーションした。花粉症の症状が出始めたので、客席でくしゃみや鼻水が出ないよう薬を処方してもらい、外出は必要最低限に留め、ひたすらに参考文献を読み続けた。前日には気合いを入れるべくマッサージをして青いネイルを塗った。青を選んだのは、村井良大演じるクランシーがゲネプロで青いシャツを着ていたからである。

そして迎えた2月22日マチネ公演。最近までマチネとソワレの意味すら知らなかったのに、何ならゲネプロの意味だってさっき調べたばかりだというのに、とうとう日比谷のシアタークリエに来てしまった。チケット売り場には『ローズのジレンマ』のポスターが何枚も貼ってあり、クリエ前のモニターにはゲネプロ映像が流れている。今までネット上でばかり目にしていたポスターや映像が、現実の街の中で存在していることに驚く。夢じゃなかったんだ。

シアタークリエはコンパクトながらも最前席から後ろに向かって傾斜がついていて、どの席からも舞台上がよく見える劇場だった。私の席は最前ブロックの少し後ろの方だったが、オペラグラスなしでも十分に俳優の表情が見えそうだ。ステージにはすでにセットが組んであり、マスク越しにバラの香りがふんわり漂う。"ローズ"だから? 期待と緊張でドキドキしながら開演を待った。

そして肝心の舞台。とても良かった。あまりにも素晴らしかった。生で観る演劇は情報量が多く、こちらの感情の奥に手を突っ込んで揺さぶってくるような威力があり、何だかみぞみぞして落ち着かなくなって、電車に乗らず皇居方面に歩き出し、そのまま国会議事堂、赤坂、六本木を通って東京タワーに到達し、なぜかエレベーターではなく外階段で展望台に上って死にそうになり、トップデッキツアーなるものに参加して一人なのに記念写真を撮られ、外階段の揺れをもう一度体験する気にはなれずエレベーターでタワーを降りてからはさらに増上寺、田町と進み、品川駅に着く頃には20時半を過ぎていた。シアタークリエを出たのが15時過ぎだったから、5時間以上歩いたことになる。取り乱しすぎである。しかしとにかく足を前へ交互に出す動作を続けていると、かき乱されて捉えられなくなっていた思考の輪郭が徐々に浮かび上がってきた。


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『ローズのジレンマ』のあらすじはこうだ。アメリカを代表する大作家ローズ(大地真央)は、最愛の恋人である人気作家ウォルシュ(別所哲也)を亡くして以来5年間もスランプに陥っている。悪化していく経済状況を心配する秘書のアーリーン(神田沙也加)はなんとか新作を書かせようとするが、ローズは聞く耳を持たず、彼女にだけ見えるウォルシュの亡霊とのおしゃべりを楽しんでいる。同じくローズの経済状況を心配したウォルシュは、彼の未完成の小説『メキシカン・スタンドオフ』を売れない若手作家クランシー(村井良大)と共に完成させることを提案する。しかし二人の共同作業は難航して……。

『ローズのジレンマ』はニール・サイモンの戯曲で、彼が敬愛する劇作家テネシー・ウィリアムズの『夏ホテルの装い』を意識して書いた物語だそうだ。私はローズとウォルシュのモデルをフィッツジェラルド夫妻だと思い込んでいたのだが、その後雑誌『ステージスクエア』の村井良大小山ゆうな対談を読んで、リリアン・ヘルマンダシール・ハメットカップルがモデルだと知った。どちらも知らない作家だったので、すぐにリリアン・ヘルマンの著作を調べ、絶版になっている自伝的小説を図書館で借りて読んだ(その後古本で購入した)。リリアン・ヘルマンはなかなか骨太な左翼で(アメリカにこんな人いたのか)、ふんわり華やかなローズとは随分イメージが違う。ヘルマンはハメットを「ダッシュ」と呼んでいるのだが、そこだけはなんとなく「ウォルシュ」と似ている気がする。まあshの発音だけなんだけど……。

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また、ウィリアムズの『欲望という名の電車』と『ガラスの動物園』も読んだ。

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両作品とも登場人物たちがあらゆる変化と制約の中で膠着状態に陥っており、特にヒロインは板挟みの状態に置かれている。新時代と旧時代、現実と理想、生と死。彼女たちは想像力を精一杯働かせて生き抜こうと奮闘するが、彼女たちの話に真剣に耳を傾ける者は誰もおらず、次第に破滅していく。『欲望という名の電車』のブランチは結婚で人生の一発逆転を狙うも最後は妹婿スタンリーにレイプされて精神病院に入れられるし、『ガラスの動物園』のローラは気を持たせてきた弟の同僚ジムに捨てられる。彼女たちは板挟みのまま現実から永遠に締め出されてしまうのだ。彼女たちのモデルがウィリアムズの姉ローズ(!)で、彼女が精神を病んだ末にロボトミー手術を受けさせられたことを考えると、このような結末にするしかなかったのだろう。

では『ローズのジレンマ』のローズはどうか。彼女ももちろんあらゆるものの板挟みになっている。現実の苦境と空想のおしゃべり、ウォルシュの創作物に加えられようとするクランシーのアイディア、アーリーンとの親子関係。しかもローズにしか見えない恋人の亡霊とずっとおしゃべりしているのだから、ブランチのように精神病院に入れられかねない状況だ。だがローズは破滅しない。作中でスタンリーやジムやトムと同じく新時代を象徴する役割を担っている若者クランシーが、ローズの話を信じたからだ。ローズがクランシーに、自宅には亡霊になったウォルシュが存在していて、彼がクランシーを推薦したのだと告げたとき、クランシーは最初こそ精神疾患を疑ったものの、最後にははっきりと「あなたの話を信じます」と告げた。私はここに感動してしまった。ブランチもローラも、きっとこの一言で救われたはずなのだ。

ウォルシュの亡霊はウォルシュ自身ではなく、作家であるローズの「ヴィヴィッドなイマジネーション」が多分に作用した存在だと劇中で示されるが、考えてみればブランチもローズも「ヴィヴィッドなイマジネーション」の持ち主である。ブランチは流れるように嘘の経歴を話すが、これはある意味吟遊詩人のような才能だ。また彼女は元英語教師で、文学の素養もある。ローラはガラスでできた動物たちにキャラクター設定をつけて大切にしているが、この遊びも豊かな想像力があってこそ可能なものだろう。彼女たちは文学的想像力を駆使して現実を生き抜こうとしていた。しかしその想像力に追いつける者は周囲にいない。スタンリーは文学を解するにはあまりにもリアリストかつマッチョだし、ジムは自己啓発めいたことばかり口にする。ブランチの妹ステラは多少の理解は示すものの姉の破滅を防ぐほどの力はないし、ローラの弟トムは文学青年だが、まさにそのために彼は姉を捨ててしまう。彼女たちは誰にもまともに取り合ってもらえないのだ。卓越した想像力も、理解できない者の目には狂気に映る。一方『ローズのジレンマ』の登場人物は皆ローズの聞き役だ。これは全員が作家だからこそ成り立つ関係だろう。「ヴィヴィッドなイマジネーション」とはフィクションを創り出す力だ。彼らはフィクションのプロであるがゆえにローズの文学的想像力を理解できたし、彼女を完全に孤立させないでいられたのだろう。特にクランシーはローズの想像力を信じたからこそ、作家として再起できたのかもしれない。

しかし、他人の話を聞いているばかりでは身が持たないのも事実である。第二幕はひたすらローズの話を聞いてきたアーリーンが、その役割の固定性からどうやって脱するかという話だった。アーリーンは恋仲になったクランシーとの会話の中で、ローズは自分の生母であり、経済的な問題から実父(ウォルシュではない)の元で育ち、大人になってから秘書を務めるようになったのだと明かす(ここでもクランシーは聞き役だ)。アーリーンは「彼女をママではなくローズと名前で呼ぶような対等な関係が気に入っている」と言うが、実際には偉大な母に恐縮して話をしたいときにできなかったことがしこりになっていた。アーリーンはそのことを衰弱したローズにぶちまけるのだが、最初ローズは「そのときに言ってくれればよかったのに」と言う。まるで『ガラスの動物園』の母アマンダと息子トムの口論のようである。上の立場にいる者は常に無自覚なのだ。しかしアマンダとは違い、ローズは最終的にアーリーンの話を「遮らないで聞く」ことを選択し、娘の心を癒す。ローズ自身も話を聞くことによって現実に引き留められ、救われる。未練を解消したアーリーンにローズの亡霊は見えない。ローズにウォルシュの亡霊が見えていたのは、二人が「さらけ出して話をする」ことがないまま死別してしまい、未練が残っていたからなのだ。

『ローズのジレンマ』は「明かりを吹き消してくれ、ローズ」という明らかに『ガラスの動物園』をオマージュした台詞で終わるが、その後味は全く違う。『ガラスの動物園』はローラを犠牲にしてもなお誰も救われず、トムはいつも過去に後ろ髪を引かれたままだ。しかし『ローズのジレンマ』は話を聞き聞かれることでお互いを救い、全員が膠着状態(メキシカン・スタンドオフ)から抜け出し、新天地へと旅立っていく。とても優しい物語だ。これはブランチやローラを救う物語だし、ウィリアムズ自身への救いでもあるかもしれない。ニール・サイモンの愛と懐の広さよ……。またコロナ禍という膠着状態にあり、元首相が「女は話が長いから発言時間を限るべき」と放言してしまうような今の日本社会において『ローズのジレンマ』を上演するのは、ある意味ソフトなエンパワメントにも思える。コロナ禍でのあらゆる苦境を我々が知っているのも、フェミニズムが小さな成功を積み上げているのも、声を上げた誰かの話を遮らずに聞く者がいたからではないだろうか。

前述した通り、劇場にはバラの香りが漂っていたのだが、観劇初心者の私は匂いが小道具(大道具?)として使われることに驚いた。開幕早々ローズはウォルシュの「セクシャルなアロマ」を感じるために大量のバラを飾るのだと言い放ち、節約のために生花を造花に変えようというアーリーンの提案を却下する。その後だんだんバラの香りはしなくなり、ローズの寿命が近づくとともに生花も減っていく。しかしカーテンコールの歌唱でローズが現れたとき、再びバラの香りが客席に漂うのだ。つまり『ローズのジレンマ』において匂いは登場人物の存在を示すものとして使われている。観客は匂いを感じることで、登場人物と同じ空間にいるような没入感を味わう。映像や文字メディアに親しんできた私にとって、これは大きな発見だった。映画『パラサイト』においても匂いは階層を示すものとして機能するが、観客は匂いを感じられないので、あの豪邸の観察者にしかなれないことを否応なく痛感させられる。それに比べて『ローズのジレンマ』の匂いのなんと救いのあることか。我々にも膠着状態を変えられる可能性があるように思えてしまう。

さて、私はやはり村井良大が好きなので、彼と彼が演じたギャヴィン・クランシーについて書いてこの記事を終わりたい。クランシーは最初赤いチェックシャツに革ジャン、サングラスという衣装で登場するが、このサングラスが戦国鍋の信長がかけていたものと酷似しており、赤いシャツとも相まって「理念を持ち、信念に生きよ」の台詞が脳裏を過ってしまった。危ない。あのシーンは彼がいわゆる正装をする機会がほとんどない階層にいることを示すもので、クランシーが自分の文学的才能を発揮する機会にあまり恵まれずに生きてきたことを想像させられた。『ガラスの動物園』のトムが都会に来たらこんな感じなのかもしれない。

アーリーンに好意を抱いたクランシーは、ローズにアーリーンとの関係を尋ねる。彼はアーリーンがローズに並々ならぬ感情を抱いていることに気付き、彼女たちが恋愛関係にあるのではないかと疑ったのだ。女性が女性に強い執着を抱いていることに気付けること自体、クランシーが新時代の男性であることを示しているように思う。クランシーのモデルの一人であろう『欲望という名の電車』のスタンリーなら気付かないはずだ。彼は女性を己のマッチョな魅力に屈すべき存在とみなしており、自分を差し置いて他の女性に魅了される女性を一切想像できなさそうである。それに女性同士でセックスが成立するなんて夢にも思っていなさそうだ。同じくクランシーのモデルであろう『ガラスの動物園』のジムも、自己啓発めいたことばかり口にするのはパラダイムを疑えない証拠なのできっと気付かないだろう。しかしクランシーは「彼女、あなたのためなら火の輪もくぐるでしょ」と恋敵かもしれないローズに迫る。ウーマン・リブと同性愛解放運動を経たアメリカに生きる男性だからこそ出た言葉だろう。クランシーは最初のアプローチこそ多少マッチョだったが、付き合い始めてからはアーリーンにとても優しい。村井良大はこの変化の表現がとても上手かった。

クランシーは劇中で常に話を聞く役回りだが、彼の話は誰が聞くのだろうと少し心配になったが、きっとアーリーンが聞いてくれるのだろう。アーリーンの執筆状況が全く示されなかったことだけが心残りだが、新時代の作家カップルとしてどこかで精力的に創作活動に励んでいることを願う。

『戦国鍋TV』レビュー③

最近、天正遣欧少年使節のことを考えては胸が締め付けられている。きらきら輝く少年たちに待ち受ける運命をすでに知っているからだ。うう、つらい。つらいよう。つらすぎるから、とりあえず彼らのきらめきをしばらく直視しよう。

戦国鍋TV』での天正遣欧少年使節は、「九州のキリシタン大名がプロデュースする、ヨーロッパ帰りのフレッシュなアイドルユニット」だ。メンバーは、圧倒的な華を見せつけてくる伊藤マンショ(相葉裕樹)、しっかり者だが腹に一物抱えていそうな千々石ミゲル村井良大)、無口だが優秀な原マルチノ菊田大輔)、美形でセクシーな中浦ジュリアン井深克彦)。非常にバランスの取れたメンバー構成だ。細かいラメが織り込まれた水色のジャケットと白いパンツを身につけて、まるで王子様のような佇まいである。しかし、やはりそこは『戦国鍋TV』、彼らの行動にはどこかおかしみがにじむ。彼らは一様に所作がゆっくりしていて、ルー大柴のような英語まじりの日本語を話す(勉強していたのはラテン語のはず)。ミゲルの「マカオでwindをwaitしていた」という台詞には思わず吹き出してしまった。

村井良大は、SHICHIHON槍のときよりも少し大人びている。可愛く元気なかーくんとは打って変わり、少し低めで透明感のある声と落ち着いた所作でミゲルを演じていた。笑い方も違う。かーくんはにぱっと満面の笑みを浮かべるが、ミゲルは真顔を崩さない程度にそっと微笑む。まるで別人だ。村井良大は本当に上手い。

ミゲルはムードメーカー的な役割も果たしているのか、途中から自己紹介の前に「君を僕だけのものにしたい」とか「運命の赤い糸って、信じる?」とか、気障な台詞を挟み込むようになる。また口下手なマルチノに代わってゴアでの功績を話したり、ジュリアンと仲が良いのか頻繁に小声でおしゃべりしたり、面倒見も良さそうだ(過干渉なのかもしれないが)。

マンショとミゲルにはソロダンスパートが割り当てられている。マンショはリーダーらしく正統派なダンスを見せてくれる。相葉裕樹は踊るとスタイルの良さがより際立つ。とても舞台映えのする俳優だと思う。対してミゲルはパントマイムのような不思議なダンスをする。あれが村井良大がプロフィールの特技欄に書いているアニメーションダンスというものなのだろうか。とにかく肩甲骨が柔らかい。

なんとなく、実際の天正遣欧少年使節もこんなふうにきらきらしていたのではないかと思ってしまう。彼らは皆名家に生まれ、セミナリヨで当時最先端の教育を受けたエリートだ。その上誰も行ったことがないヨーロッパ大陸への切符を手にする。周囲の注目を集めていたのではないか。

彼らのデビューシングル『GO! 天正遣欧少年使節』は、ヨーロッパ渡航への期待の高まりを表した歌だ。

この海の向こう 何が待っていても

十五夜に(1582)希望の船で漕ぎ出そう!

ローマ教皇 スペイン国王

メディチさんにも会えるかな

リスボン ミラノ フィレンツェ マドリード

舞踏会にも出れるかな

1582年といえば本能寺の変だ(私は「いちごパンツの織田信長」で覚えた)。少年使節がヨーロッパへ旅をしている間に、日本では織田信長が死に、豊臣秀吉が天下を取り、キリスト教への風向きは変化した。彼らは日本におけるキリスト教文化の絶頂期に船を漕ぎだしたのだ。ヨーロッパで異文化に接し多くを学んだ彼らは、帰国後次第にキリシタン弾圧に晒されることになる。史実を踏まえると、この歌詞がより儚いきらめきを放って見える。

天正遣欧少年使節は公開収録中に突然解散を報告する。ラストライブの後、「天正遣欧少年使節は後年キリシタン弾圧により数奇な運命を辿ったとされている」というテロップが流れる。彼らに何があったのか。

私は九州北部に縁があって、周辺のキリシタン史跡を何度か訪れたことがある。長崎や天草の教会群は最近世界遺産に指定されて有名になったが、あの立派な教会が建てられたのは明治維新の後、禁教令が解かれてからだ。それまでキリシタンはずっと苦難のうちにあった。九州北部には摘発されたキリシタンが拷問にかけられている絵画や、殺されたキリシタンが埋められた首塚と胴塚、隠れざるを得なかったキリシタンの持ち物や集会場が、至るところに残されている。あそこに行くと、日本がずっと「ひとつの国」だったなんて口が裂けても言えなくなる。むしろ単一性を無理やり作り出そうとして多くの人間を殺してきたのが日本なのだ。その犠牲者の一人が中浦ジュリアンだ。彼は穴吊るしの刑にされて死んでいる。拷問に耐えかねて棄教する者も多かったのに、彼は最期まで信仰を貫いたのだ。

 一方、天正遣欧少年使節で唯一棄教したのが千々石ミゲルである。『戦国鍋TV』でミゲルが持ち物に「千々石清左衛門」の名前を記したシールを貼っていたことや、彼が最初にグループを脱退しようとしたことは、この史実のアレンジだろう。wikipediaによれば、彼はヨーロッパ滞在中からキリスト教徒による奴隷制度などに疑問を持っていたという。キリシタン弾圧による棄教ではないのなら、キリスト教に対して彼なりに思うところがあったのは間違いないだろう。しかし棄教しても心穏やかに過ごせたはずもなく、ミゲルは大村藩内の争いに巻き込まれて命を狙われてしまう。最近ではミゲルの墓らしきものが見つかり、棄教していなかったとする説も浮上しているようだが、真実はわからない。ミゲルの考えていたことが知りたい。

あまりにも気になりすぎて、とうとう文献を手に取ってしまった。若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』だ。

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上下巻合わせて1000ページ以上あるのに慄きながら読み始めたのだが、プロローグから引き込まれてしまった。若桑みどり西洋美術史の研究者だが、日本の敗戦からちょうど50年経ったある日、一つの問いが内心に浮かぶ。

「東洋の女であるおまえにとって、西洋の男であるミケランジェロがなんだというのか?」(上巻、p13)

若桑みどりは、戦後再び日本に移植された西欧型の知識体系の中で学び、キャリアを積んだ研究者である。日本にイタリア美術を紹介した功績もある。しかし、どれだけ研究をしても彼女は「西洋美術を理解する東洋人の女」でしかない。「日本人として西洋と日本を結ぶことを研究したい」と思い立ち、そのためのテーマを探し始める。非常にポストモダン的な思索だ。西欧型のエリート教育を受けた非西欧人として、今まで学んできた知識の中で何を忘れ去ってみるべきなのか。己のうちを探っていくと、1961年に自身がイタリア政府給費留学生として船で(!)ローマへ渡った体験が思い出される。船の客室係はコルシカ人で、フランス語やイタリア語が流暢な日本人留学生たちを名誉白人のように扱っており、若桑もその仲間に入れられていた。彼は若桑のルームメイトが質素で不潔な中国の少女であることを申し訳なく思っており、若桑自身も彼女が疎ましかった。しかしある経験をきっかけに若桑の姿勢は変わる。

あるとき、彼女は、私が寝過ごして朝食を食べそこねるのではないかと心配して私をゆり起こした。私は英語もフランス語もイタリア語も通じないこの中国娘に辟易して、紙片にでたらめな漢文で「われ眠りを欲す」と書いた。彼女は大笑いをして紙片をとり、「わが名は黄青霞」と書いた。私は起きて彼女を見たが、私たちがとてもよく似ていることにそのときはじめて気づいた。「われは香港の祖母のもとを出て今サイゴンの父母のもとへ行く。汝いずくより来たり、いずくへ行かんと欲するや」。「われは日本より来たり、ローマへ行かんと欲す。かしこにて学を修めることを願う」。青霞は私の肩を叩いて紙片を見せた。「われ汝の成功を祈る」

サイゴンで黄青霞は手をふって降りていった。メートル・ドテル(筆者注・客室主任のこと)は犬を追っ払うようなしぐさで「マドマゼル、追っ払いましたよ!」と言った。でも、私は傷ついた。青霞は私だったからだ。まぎれもなく私は黄青霞の「仲間」、「黄色い」東アジア人なのだ。その日から私は名誉白人の仲間には入らなかった。この経験を私はひそかに、「わが心の黄青霞」と呼んでいた。そして筆談の紙片をたいせつにもっていた。でもそのときは、それが自分にとってどういう意味があるのかをわかっていなかった。(上巻、p15)

この文章を読んだとき、私は思わず泣いてしまった。今もキーボードを叩きながら泣いている。

若桑よりずっと卑近な例ではあるが、私にも似たような経験がある。小学校高学年の頃、通っていた小学校に韓国の小学校教師が視察に来た。事前に担任教師から韓国語のあいさつを仕込まれていたのだが、それだけでは足りないだろうと思った私は前日に和英辞典を読んだ。外国人と話すなら英語と思い込んでいたのだ。当日はいくつかのグループに分かれて一緒に折り紙をしたが、もちろんその場で英語が出てくるはずもない。通訳はいたが一人だけ、別学年の生徒のお母さん(韓国出身)で、児童のお世話係も兼ねており、別のグループにかかりきりになるとこちらのグループにはなかなか来ない(今思い出すとあのお母さんにちゃんと給料が出ていたのかが気になってしまう)。仕方ないのでみんなで手振り身振りでのコミュニケーションを試み、韓国の先生も職能ゆえにこちらの意思をすぐに読み取ってくれたのだが、次第に漢字での筆談が一番正確で速いことに気が付いた。韓国の人も漢字を使うのだ。そのとき初めて、日本と同じく韓国も、中国から伝わった漢字に大きく影響を受けてきた地域だということに気が付いた。アルファベット以外の文字でコミュニケーションを取れる外国があるのだ。不思議な感動がじんわり身体に広がった。もちろん、韓国における漢字使用は中国や日本からの支配と無関係ではないし、日本人である以上そのことに自覚的になる必要はあるだろう。現在の韓国では漢字教育をしていないところも多いそうだし、漢字で筆談ができる韓国人は当時より少ないかもしれない。それでも「グローバル化」旋風が吹き荒れ徹底的な英語教育が急務だと騒がれていた当時、外国人と漢字でコミュニケーションを取れるという発見は、私に小さな種を植え付けた。

その後、私は大学で政治思想史を勉強した。厳密に言えば西欧政治思想史だ。イギリスやフランスやドイツやイタリアの思想的蓄積とひたすらに格闘し、理解しようと試みた。民主主義とは、自由主義とは、社会とは、ロゴスとは。アルファベットから漢字とカタカナに翻訳された言葉と毎日取っ組み合う。学生たちの知的格闘は、そのまま日本の200年前と重なった。アジア的土壌に西欧思想の苗を植え付けたのが日本の近代化だったのだ。しかしこの苗は200年の間でどれだけ根を張ったのだろうか。「民主主義」も「社会」も、どこかズレた使われ方をしているように思えてならない。私が学んだ政治思想史は日本の誰にも通じないような気がして落胆することもある。私は若桑の足元にも及ばない、留学したこともないただの学部卒だが、「西洋美術を理解する東洋人の女」という感覚は、なんとなく想像ができるのだ。

そして、もしかしたら千々石ミゲルも似たような感慨を抱いたのではないかと想像する。近代の土台がつくられ始めた頃の西欧で学んだ文化や思想は、10代のミゲルに大きな影響を及ぼしたことは間違いない。では生まれ育った日本との齟齬についてはどう考えていたのだろう。このことは、きっと帰国後にミゲルがとった政治的立場と無関係ではないはずだ。

兎にも角にも、『クアトロ・ラガッツィ』を読んで彼らの足跡を辿りながら考えるほかない。しかしここまで私の頭を回転させる『戦国鍋TV』の天正遣欧少年使節、恐ろしい……。

『戦国鍋TV』レビュー②

戦国鍋TVBlu-rayの3枚目まで見たので、とりあえず感想。天正遣欧少年使節については考え過ぎてぐちゃぐちゃになっているので後日書く。

兵衛'z

ステージ上でノリながら跳ねる竹中半兵衛相葉裕樹)の体幹があまりにもしっかりしている。マラカスを落とす瞬間がものすごくかっこいい。

堺衆

村井良大の変貌に驚く。あの商売人スマイル、かーくんやミゲルを演じていた俳優と同一人物とはとても思えない。井深克彦がめちゃくちゃかわいい。

利休七哲

衣装がとてもかわいい。おっきー、すごくかっこつけてるけど、私は君がガラシャにしたこと知ってるからな。

浅井三姉妹

歌詞があまりにもつらい。10代の頃に大河ドラマをよく観ていたので、浅井三姉妹の人生は大体わかっているのだが、こうやって歌詞にまとめるとハードな人生を歩んでいるのがよくわかる。トークで後ろに移りこんでいる天正遣欧少年使節の衣装がものすごく気になる。江役を川崎希がやっていて驚いた。

お城が好き!

お城のプラモデル屋を舞台に店員(山崎樹範)と子供が知識バトルをするコント。城好き、ひいてはあらゆるジャンルのオタクの心をえぐってくる。こういうマウント取りあるよね……。先日ドラマ『その女、ジルバ』を見ていたら、山崎樹範が主人公の元カレ役で出演していて驚いた。主人公の写真フォルダを「想ひ出」にしている役なのだが、その気持ち悪さが絶妙に醸し出していてすごい。

戦国サポートセンター

雪斎役の鈴之助の、優秀だがラフな感じのしゃべり方がとても良い。声のトーンとリズムが非常に心地よい。特に「俺くらいになるとな、お前らみたいにこんなムサ苦しいところでこもりっきりで仕事しないの」という台詞、何度でも聞きたい。タバコをくわえながら台詞をはっきり言えてしまうのにも驚いた。

戦国武将がよく来るキャバクラ

毛利元就(渡辺哲)の回がとてもよかった。毛利元就はふにゃふにゃしゃべっていたかと思うといきなり怒鳴る、いかにもおじさんをカリカチュアしたキャラクターだ。彼と会話するレイナはいつもよりテンションが高い。盛り上げないとおじさんに太刀打ちできないというのもあるだろうが、演じる柳沢なな自身がグルーヴ感を楽しんでいるようにも見える。ベテラン俳優の出演回だからかいつもより尺が長く、毛利がレイナを再び指名して席に着かせる場面もある。素人目にも演劇が楽しそうに思えた回だった。

留まれない

昨年の秋頃から『ナポリの物語』というイタリアの小説に脳をジャックされている。ナポリの貧困地域に生まれた少女・レヌーとリラの50年に及ぶ友情の物語で、全4巻あるのだが、1巻を読み始めたら止まらなくなって貪るように読んだ。読了してからも『ナポリの物語』の世界が頭の中に巣食っていて、テレビドラマや小説の中にその面影を探してしまう。どうしようもないので、2021年は『ナポリの物語』をより理解するためにイタリア近代史とイタリア文学を学ぶ年にしようと考えていたのだが、よりにもよって元日に村井良大を見つけてしまった。あけまして村井良大。もう頭はぐちゃぐちゃである。とうとう脳内であらぬ妄想が繰り広げてしまった。もし『ナポリの物語』が日本で舞台化されることになったら村井良大はどの役がいいかという妄想である。推し小説と推し俳優の悪魔合体。そもそもイタリア本国でも舞台化されていないのに。己の業にまみれた妄想であるが、少し書き残しておきたい。以下『ナポリの物語』のネタバレになるので注意。

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村井良大は「普通の男性」の役が似合う俳優だが、残念ながら『ナポリの物語』に「普通の男性」はほとんどいない。出てくる男性は基本的に暴力を辞さないヤバい奴らである。では、唯一まともに見えるエンツォに村井良大アサインするのはどうだろう。野菜の行商をする村井良大。不倫に行き詰まったリラを助ける村井良大。プログラミングの勉強をする村井良大。なかなか良い。エンツォは自分の容姿にあまり自信のない男性なのだが、村井良大なら地味な雰囲気をうまく演じられるのではないだろうか。

しかし、どうせならもっと振り切れた村井良大も見たい。チンピラの村井良大が見たい。ナポリの地区を支配するマフィアの手先・マルチェッロを演じる村井良大が見たい。弟・ミケーレとともにイケてる車を乗り回しては女を連れ込む村井良大。リラに強引に求婚する村井良大。リラの作った靴を履いて結婚式に登場する村井良大。最後は弟と一緒に暗殺される村井良大……。マルチェッロは地区一番のイケメンという設定なので、村井良大には己の美貌を存分に生かして演じてほしい。そしてその場合のミケーレ役は鈴木拡樹が良い。美形で凶悪な鈴木拡樹を見たい。リラにナイフを突き付けられる鈴木拡樹。鉄パイプで人を殴る鈴木拡樹。やたらとリラに執着する鈴木拡樹。婚約者がいる前で「俺の子供は何人いるかわからない」と言い放つ鈴木拡樹。見たい。

村井良大にはステファノもいいかもしれない。最初は話のわかる賢い商売人だと思っていたのに、結婚した途端初夜から妻を殴りつける村井良大。リラを束縛しながらも陰でちゃっかり愛人を作っていた村井良大。最後は商売の不振と愛人たちの養育費で首が回らなくなった村井良大。ステファノは地区の男性としてはごく普通のタイプである。この地区では日常と暴力がシームレスにつながっているのが普通なのだ。そういう男性を演じる村井良大も見てみたい。

しかし、ここまで妄想を書き散らしておいて言うことではないかもしれないが、日本で『ナポリの物語』を舞台化するのは難しいだろう。『ナポリの物語』は、近代ヨーロッパが築き上げてきた思想的蓄積を、近代化から排除されてきたナポリの共同体や女性たちから照射した物語である。近代ヨーロッパの諸制度を輸入したものの元々のアジア的土壌にうまく根付かせることができなかった日本には、あの物語の核心を舞台上に現前させられる人間はそういないだろう。やはりHBOドラマ版『ナポリの物語』を日本で配信するのが先だ。HBOさん、日本でもお願いします……。

youtu.be

 

『ローズのジレンマ』が観たい。今度村井良大が出演する舞台だ。過去出演作のトレーラー映像を見ていたら、村井良大の演技があまりにも魅力的で、実際に観に行きたくて仕方なくなってしまったのだ。それに演劇公演はなかなかDVD化されない。やはり舞台は生ものなのだ。しかも『ローズのジレンマ』は主演は大地真央、共演に別所哲也、神田沙也加という豪華な布陣である。登場人物が少ないから、人の顔を判別するのが苦手な私でも出演者を混同しなくて済みそうだ。観たい。でも新型コロナウイルスが怖い。劇場は感染対策をしているだろうが、家からの道程が不安である。ウイルスを媒介したくない。どうしよう。村井良大のインタビューとチケットサイトを往復してはため息をつく。

演出と翻訳が小山ゆうなという女性なのが気になった。何だかテレビドラマのスタッフロールで塚原あゆ子を見つけたような気分である。検索してみたらインタビュー記事がいくつかヒットした。

spice.eplus.jp

恥ずかしながらヴェデキントという劇作家をこのとき初めて知ったのだが、ファム・ファタルを描いた物語として上演されてきた『LULU』を、現代的かつ女性の内面にフォーカスした翻案をして演出したらしい。ファム・ファタルサークルクラッシャーは彼女だけでなく取り囲む男性たちにも原因があると、私は常々思っているので、「ルルはある意味社会の犠牲者」と話す小山さんはなんだか信用できる。最後のヴェデキントやブレヒトについての話も興味深い。

natalie.mu

こちらは2019年の東京芸術祭でドイツの演出家オスターマイアーが手がけた『暴力の歴史』の上演に際してのインタビュー。古典を現代的に演出して社会問題と地続きにしようと試みるオスターマイアーの話や、ライブ映像を使った演出の理由、日本にもファンが多いドイツの演劇シーンなど、面白い話が盛り沢山だったのだが、なかでも特に興味深かったのがドイツの劇場に公金が投入されているからこそ自由だという話だ。

それと、ドイツに社会問題を扱った演劇作品が多いのは、ドイツ人がそういうのが好きだからなんじゃないかってよく言われるんですけど、たぶんそういうことじゃなくて、国の助成金が政治問題とか社会問題を扱っていないと下りないんですよ。それははっきり条件として書かれている。ただ、行政は作品に一切口出しをせず、作品に口を出すのは市民の仕事。ハンブルクの劇場で演劇を観たとき、お客さんがブーイングした回があって。休憩中も、偶然そこに集まった市民同士で「この作品に自分たちの税金が投じられているのはどうなのか」と議論していました。でも作品がよければ「すごくよかった」と反応しますし。

政治問題や社会問題を扱っていることが国の助成金の受給条件として明記されているけれど、内容に一切口出しをしない国、ドイツ。おそらく、表現の自由を国家が法的に保護すべきものだと考えられていることと関係があるのだろう。日本で同じことをしようとしたら、行政の中立性の放棄だと市民から批判が出そうである。もしかしたら行政側が無理やり上演中止にしてしまうかもしれない。このようなドイツの芸術支援は、政府と市民、または市民同士の間に批判を批判として受け取るような信頼関係が存在しているからこそ可能なのだろう。だから芸術を社会に不可欠なものだというコンセンサスが明確になり、市民から集められた税金を投入する作品の判断は市民に委ねられる。市民社会って本来こういうものであるはずだ。政府の文化支援のあり方には色々な議論があるだろうが、やはりドイツは成熟した社会に見える。

 もう一度『ローズのジレンマ』のサイトを見ると、ここにも小山ゆうなのインタビューがあった(なぜ早く気が付かなかったんだろう)。『ローズのジレンマ』はニール・サイモンテネシー・ウィリアムズ作品を意識して書いたものだという話をしている。

www.tohostage.com

演劇について無知な私でもテネシー・ウィリアムズの名前は知っていて、『欲望という名の電車』は自分でチケットを買って観に行ったことがある。ケイト・ブランシェット主演の『ブルー・ジャスミン』という映画が好きで、その原案になっていると聞いて興味があったのだ。どちらも裕福だった女性が状況変化に耐えられず、精神を病んでいく物語である。特に『欲望という名の電車』のヒロイン・ブランチは南部の大農園主の娘なのだが、彼女を通して見る当時のアメリカの社会構造は非常に興味深かった。テネシー・ウィリアムズ自身も南部出身で、彼もブランチ同様裕福な暮らしからの転落を経験しているらしい。一方、彼とほぼ同時代を生きたニール・サイモンはニューヨーク出身のユダヤ人である。ニール・サイモンの目にテネシー・ウィリアムズはどのように映っていたのだろうか。

 ここで改めて村井良大のインタビューを読んでみると、興味深い一言を発見した。

ovo.kyodo.co.jp

村井良大演じるクランシーについて)ボロボロの汚い格好をして、スニーカーで、いかにも「アメリカの田舎から来ました」という見た目の青年です。

アメリカの田舎とは、南部のことなのだろうか。先の小山ゆうなのインタビューから想像するに、ローズとウォルシュのモデルはフィッツジェラルド夫妻のようだ。夫妻に巻き込まれるクランシーは、さしずめパラレルなテネシー・ウィリアムズといったところだろうか。構造的にとらえすぎかもしれないが。

色々気になりすぎてwikipediaを調べまくっていると、テネシー・ウィリアムズ三島由紀夫と仲が良く、何度か来日していたことを初めて知った。確かに気が合いそうな二人である。何ていうかこう、作風的に(どちらもそんなに作品を知らないけど)。

村井良大のおかげで脳みそが地球を一周してしまった。『ローズのジレンマ』のチケット、旅費代わりに買います。当日までに体調を整えなければ。

逃げない

脳みそ夫の『OL聖徳太子』というネタがある。なぜかOLをしている聖徳太子が「飛鳥商事」という会社で働き、同僚の蘇我氏物部氏の乱を収めたり、上司の推古天皇の噂話をしたりするコントだ。OL聖徳太子蘇我氏のことが気になっているのだが、彼の話をするときは必ず「Sくん」と呼び、その後「あ、Sくんって蘇我氏のことです。イニシャルにしてる意味ない(笑)」と言うのがお決まりになっている。少しでも日本史を勉強した人なら、聖徳太子にまつわるイニシャルSの人物といえば蘇我氏だとすぐにわかるだろう。『戦国鍋TV』出演者Mといえばかの俳優であるのも然り。Mはミスター戦国鍋である。こちらもイニシャルにする意味はないのだ。それでもイニシャルで書いていたのは、名前を何度も打ち込んでいたら本当にハマってしまいそうで怖かったからである。

推しを推すとはどういうことなのか、最近考えている。「推し」という言葉はここ10年ほどで人口に膾炙した新しい言葉だ。AKB48をはじめとする大人数のグループアイドルが乱立したときに使われ始めた記憶があるから、「推し」とはつまり「自分が応援している人・グループ・モノ」という意味だろう。 

思い返してみれば、10代の頃から常に「推し」に頼って生きていた。当時は「推し」という言葉がなかったから、「推し」に相当する存在と書いたほうが正しいかもしれない。最初の「推し」はあるジャニーズアイドルで、その後は漫画のキャラクターたちだった。彼らはエンターテインメントの教科書だった。シングルCDやアルバムCD、オリコンランキングの存在や、雑誌連載がまとまって単行本になることを教えてくれたのは彼らだったし、ストーリーの型や元になった古典や神話を知ることができたのも、人間の感情の動きについて深く考えるようになったのも、全部彼らのおかげだった。彼らがいたから、自分の興味の赴く方向に手を伸ばすことができたし、自分の身を危険に晒すことなく人間の欲望や悪意を知ることができた。一方で、推しの発言や作品に違和感を覚えても、それを言語化することはできなかった。まともな批判をするにはあまりに無知だと自覚していたし、何より反対意見を言わずに褒めることが「好き」の表現だと思っていたからである。

20代前半の頃は、ある女性アイドルグループを推していた。彼女たちは皆ダンスが上手く、非常にパワフルなパフォーマンスをするアイドルで、彼女たちのステージはいくら見ても見飽きることがなかった。しかし彼女たちの活動を全部追うのはとても大変だった。新曲のCDやライブはもちろん、各メンバーのブログ、ファンクラブ限定のグッズや動画、テレビ・ラジオへの出演、タイアップキャンペーンやイベント等々、女性アイドルというのは供給がとにかく多い。ファンの友人たちは精力的に活動を追っていたが、当時私生活で精神的に疲弊していた私には難しかった。それでも活動のすべてを追わないと推していることにならないような気がして、焦燥感だけが募った。結果、余計に疲れてしまい、次第にフェードアウトしていった。

20代半ばの頃、一人旅で泊まったホテルのテレビで見たKis-My-Ft2(以下キスマイ)に目を奪われた。若い女の長期国内旅行は中高年男性の説教や視線との戦いで、個人的な領域を土足で踏み荒らされる度に精神が磨り減っていった。次第に男性を見ただけで警戒するようになり、気を張りすぎて外にいるだけで疲れてしまう。そんなとき、シングルルームのテレビの中でキレキレのフォーメーションダンスを踊るキスマイは、私にとって唯一の心の拠り所だった。キスマイのことを考えたら、張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩んだ。好奇心のエンジンが再び温まり、街を歩く勇気が湧いた。すっかりキスマイが好きになり、旅行から帰ってすぐアルバムCDを購入した。今度は自分のペースで推そうと思った。可能な範囲で活動を追って、彼らのパフォーマンスだけ見ていよう。癒されたいから全肯定も批判もしない。疲れたら無理に追わなくてもいい。そういうスタンスでいたので、直後の数年はCDもDVDも出演番組も全部追っていたが、だんだん追いつかなくなり、最近はゆるい応援にとどまっていた。

しかし、それではだめだったと痛感する事件が起こる。キスマイメンバー2人が主演と原案を務めた配信ドラマが、男性の友情を深めるために女性の胸を触ろうと奮闘する内容だったのだ。予告トレーラーが解禁された当時、タイムラインはこのドラマの配信中止を求めるハッシュタグで溢れかえった。ハッシュタグに添えられた批判も真っ当な内容ばかりだった。世の中には性暴力被害者がごまんといるのに、その被害をおもちゃにするような内容なのだから、批判されて当然である。何なら私だって痴漢被害者だ。それでも私は沈黙してしまった。気の抜けた茶の間ファンが何を言えばいいかわからなかったのもあるが、とにかくショックだったのだ。

一方で、いつかこういうことが起こるんじゃないかとなんとなく思ってもいた。原案に関わったメンバーは、「男なら」「男としては」を枕詞に話すことが多い人だった。男らしさに固執している素振りもなんとなく見てとれた。それでもダンスパフォーマンスが素晴らしいからいいやと目をつぶっていた。でもそれではだめだったのだ。推しグループの作品がこれ以上傷つけてはいけない誰かを、そして自分自身を傷つけてしまう可能性を、私は無視していたのだ。違和感があるのならちゃんと言語化すべきだった。推しと正面から向き合って批判する勇気を持つべきだった。推す責任について考えなければいけなかった。癒しだけを求めている場合ではなかったのだ。

しかしこの一件を知っても、私はキスマイのことを嫌いにはなれなかった。やっぱりパフォーマンスは素晴らしいし、トークにも愛嬌を感じてしまう。簡単に切り捨てられないほどに、私は彼らに魅力を感じていたのだ。それでも性暴力を弄ぶようなドラマを作った事実はどうしても脳裏を横切る。どんな態度でいればいいのかがわからない。自分自身が批判や対立を含む緊張関係に慣れていないことを痛感させられた。心強かったのは、例のドラマをちゃんと批判をしている人たちの中に、精力的なキスマイファンが多くいたことだ。私のような気の抜けたファンよりも相当つらいはずなのに、自分の言葉を紡いで性暴力の軽視に抵抗している。応援と批判を両立させようとしている。これこそが推す側としてあるべき姿ではないか。私もそうありたい。

批判は非難とは違う。批判は相手の言葉をよく聞き、成果物を十分に吟味した上で自分の意見を示し、相手に思考を促す行為だ。批判された側も変化(あるいは不変)をもって批判に対峙し、今度は先に批判した側に思考を促す。批判とはつまり思考のコミュニケーションなのだ。悪い点をあげつらって責め立てるだけの非難とは別物である。私は作品を通して推しとコミュニケーションを取りたい。そのためには、まず私が違和感を見逃さずに言語化できるようにならなければいけない。対立を恐れない胆力も必要だし、批判の対象を人格ではなく行為に限定するのも重要だ。憧れや好意で批評眼が曇ることも計算に入れる必要がある。そして何より、推しの他者性と、他者を魅力的に感じてしまう自分を勇気を持って受け入れることだ。社会は異質な他者同士の関わり合いで発展してきた。他者の言動に違和感を覚えても好意が持続してしまうのは、きっと当たり前のことだ。異質性を無視せず、排除せず、正面から向き合うことでつながりたい。

さて、これから私は俳優Mとイニシャルで書くのをやめようと思う。批判精神を持ちながら堂々と推すのなら、正面切って名前を書くべきだと考えたからだ。彼が批判の届く人間だと信じたい。私は村井良大さんを推します。

『戦国鍋TV』レビュー①

ここ数日間ずっと『戦国鍋TVBlu-rayを観ている。全9枚のうち2枚目を観ている途中だが、すでに面白い。放送当時は白泉社系の漫画雑誌で特集が組まれるほど人気だったのも頷ける。というか、当時の『ザ・花とゆめ』に掲載されていた「信長と蘭丸」のグラビアと振付講座が見たい。どこかの図書館に保存されていないだろうか。

とりあえず、Mが出演していたコーナーを中心に感想を書いていくことにする。演技について偉そうに書いているが、素人の感想なので悪しからず。

SHICHIHON槍

 賤ケ岳の戦いで活躍した7人の武将で結成したグループ。おそらく元ネタは光GENJI。Mは三番槍・加藤嘉明(かーくん)役で出演。ピンクのスパンコールが全体についた衣装を着て槍を持って踊るのだが、このダンスがかなりレベルが高い。特に一番槍・福島正則(ふくくん)役の相葉裕樹の身体能力が飛び抜けている。ステップが軽やかすぎるし、キックしながらセンターに躍り出るところなどジャニーズアイドルも顔負けのレベルである。かーくんも槍をバトントワリングしながらウインクしたりする。かわいい。

SHICHIHON槍のMはなんだかあどけない。前髪があるせいなのか、最年少メンバーという設定だからなのか、随分幼く見える。「信長と蘭丸」の信長と同一人物にはとても見えない。これは演技力の為せる技なのか、それとも本当に若かったからなのだろうか。

かーくんはいち早くソロ写真集を出したり、カルピスが好きという理由で一人だけカルピスを用意してもらったりしている(他メンバーのドリンクはオレンジジュース)。役の中でもすでに抜きん出ている。かわいい。

かーくんは自分の宝物として松山城を挙げていた。変な声が出た。松山城って松平家のものじゃなかったっけ。調べてみると、建てたのは加藤嘉明、その後入った蒲生家が断絶、そして松平家が入城したらしい。そうだったのか!

松山城は私にとっても思い出深い城だ。初めての一人旅で四国を周っていたとき、松山に着いた途端突然発熱した。体温を測ると38度。松山に到着した途端に目に入ってきた松山城にわくわくしていたのに、どう考えても行ける体調ではない。松山城に見下ろされながら悔しい気持ちで風邪薬を買いに行った。かーくんは「松山城は勝山の上にあるっていうのも良い」と話していたが、そのおかげで松山城は街のどこからでも見えるのだ。幸い翌日には熱が下がり、松山城を目指したのだが、天守閣近くまでロープウェイがあるのに気づかず、病み上がりの身体で登山を決行してしまった。なかなかの無茶である。若かったなあ。考えてみれば、あの一人旅はちょうど『戦国鍋TV』が放送されていた時期と同じくらいかもしれない。偶然だけどちょっと嬉しい。

SHICHIHON槍で特筆すべきは五本槍・平野長泰(ひらくん)のキャラクターだろう。最初はグループの元気印だったひらくんは、回を重ねるごとに元気がなくなり迷走していくのだが、その原因はどうやら事務所やメンバーとの軋轢にあるらしいことが暗に示される。『戦国鍋TV』の面白さは史実をネタにしながら現代のコンテンツを戯画化して見せることにあると思うのだが、ひらくんの奇行はまさにその役割を担っている。『ミュージック・トゥナイト』はまずひらくん役・矢崎広の振り切った演技で人気を引き寄せたのではないか。

戦ハーフタイム

戦国時代の合戦の途中を運動部の「ハーフタイム」になぞらえ、更衣室に戻った武将たちが戦況を話し合い後半戦に備えるコント。毎回違う合戦・武将を、固定メンバーで演じる。コントの展開は固定化されているが、俳優の演じるキャラクターは毎回違い、その差がものすごく面白い。Mは武将メンバーなのだが、初回でチャラくてバカっぽい中川清秀役を演じたと思ったら2回目はクールで真面目な明智光秀役、3回目は自信のないヘタレな島津家久役を高めの声で演じている。ここでも変幻自在だ。何パターンものMが見られて最高である。

意外だったのが鈴之助だ。彼は背が高く存在感があるので、役が違ってもあまり印象は変わらないと思っていたのだが、いい意味で裏切られた。彼は存在感のボリュームを下げられるのだ。特に長篠の戦いでの奥平信昌役は、和気あいあいとした雰囲気を出すためなのか、他の俳優と横並びになるような演技をしているように見えた。俳優ってすごい!

戦国ヤンキー川中島学園

戦国鍋TVBlu-rayの一番最初に収録されていたコント。いきなり鈴之助武田信玄役として出てきたので「チェリまほの先輩!!」と叫んでしまった(心の中で)。タイトル通り川中島の合戦をヤンキー達の校内闘争に置き換えた内容で、『戦国炒飯TV』に登場した「信プレックス」をより深く理解するのに役立つ。シンゲンケンシン。

劇中、武田信玄山本勘助にキスするシーンが2回ほどあって驚いた。武田信玄の愛情表現、唐突かつ濃い。なんだか大河ドラマ風林火山』で武田信玄山本勘助が一緒にお風呂に入るシーンを思い出してしまった。どっちの信玄も高坂弾正に怒られそうである。

大坂ハイスクール 高校与太郎爆進ロード

川中島学園から一世代後、豊臣秀頼率いる大坂学園と徳川家康率いる江戸高校との戦いの物語。要は大阪冬の陣・夏の陣の話である。ゆとり世代の私はここで初めて「シャバい」「シャバ僧」という言葉を知った。世の中には知らない日本語がたくさんある。

バカリズム島津忠恒役で出演しているのだが、なぜか彼だけリアルなヤンキー感を醸し出していて少し怖かった。『架空OL日記』のときはあんなに銀行員に馴染んでいたのに……。

戦国武将がよく来るキャバクラ

知名度が低い戦国武将たちがキャバ嬢レイナに話を聞いてもらうというコント。今ではかなり有名な武将も多く来店している。10年間で戦国時代を元にしたコンテンツが増えたからだろう。数年前に大河ドラマになった黒田官兵衛も当時はこの枠だったと考えると、少し感慨深い。

このコントで注目すべきは、なんといってもレイナ役・柳沢ななの接客演技だ。客の自慢話を軽く受け流し、聞いているんだかいないんだかわからない態度を保ちながらも、適当なところで相槌を打って客の話を促したり中断させたりする。レイナがコント全体のリズムを握っているのだ。見ているとなんだか心地よくなってくる。これがキャバクラというものなのだろうか。行きたくなる人の気持ちが少しわかったような気がする。

止まらない(※1/13追記)

Mがモデルを務めた写真作品を発見してしまった。MのTwitterとカメラマンのInstagramに投稿されていたのだが、見た瞬間に変な声が出た。突然の大々的な供給。つらい。あまりにも良い。

4パターンのスタイリングで30枚ほど公開されていたのだが、うち2パターンは黒いアイシャドウを濃く入れて、ゴシック調の服を着ていた。いつもの一般的な好青年ぶりとはかけ離れたスタイリングなのに、ものすごく似合っている。端整さが極まっていると化粧も映えるのか。きれいすぎる。V系バンドのボーカルとしてデビューして、歌唱力と表現力が認められて大人気になって、世界ツアーとかしそうな勢いで美しい。ぺろっと舌を出している写真など、hydeを彷彿とさせる(hydeV系ではない)。と思ったらカメラマンは音楽雑誌の撮影を手掛けている人らしい。カメラマン自身の得意分野なのかもしれない。私が長年好きなUNISON SQUARE GARDENの撮影もしていて、意外な繋がりに少し嬉しくなった。 

ゴシック調の作品の中に、Mの左側のフェイスラインが赤いライトで照らされている写真があったのだが、私はこれを赤いシェーディングパウダーを入れているのだと勘違いしていた。以前メイクアップアーティストの小田切ヒロが、パープルのコスメが似合わないからあまり使わないと話すYoutuberの佐藤優里亜に対して、肌なじみの良いピンクのチークでシェーディングしてからパープルのアイシャドウを入れると統一感が出ておしゃれに見えると実演していたのが記憶に残っていたせいである(私は鬼門のオレンジシャドウをこの手法で克服しようとしていた)。しかし左のフェイスラインだけ光を当てられるってどんなライトなんだろう。よほど強い光じゃないとあのようにカメラで捉えられないのではなかろうか。撮影って大変そうだな。

他の2パターンは素顔っぽいスタイリングで、黒いパーカーと黒いメッシュのトップスを着ていた。どちらもファッション誌に載りそうなおしゃれな写真で、特にフードをかぶった写真はなんだかお茶目で可愛かった。それにしてもMは肌がきれいだ。撮影用にファンデーションを塗っているのを差し引いてもつるつるしている。男性だともう少し髭の剃り跡が見える気がするのだが、見当たらない。なんとなくMのファンのブログやSNSを漁ってみたら、数年前のイベントで本人が髭脱毛したことを公表したらしい。だからか! 元々髭が濃く、朝剃ってもすぐ生えてしまうタイプで、脱毛のときは結構痛かったらしい。わかる。私も体毛が濃いから全部わかるよ……。でも私は光脱毛でもものすごく痛くて、1年もしないうちに挫折してしまった。Mさんは最後まで頑張ってえらい。そして俳優にとっての脱毛のメリットについて初めて考えが及んだ。確かに撮影や公演のためにいちいち剃るなんてとんでもなく面倒だし、肌にも負担がかかる。もし脱毛した後に髭のある役が来ても付け髭をすればいいだけだ。Mの肌のきれいさを見ると、顔脱毛に少し興味が湧く。毛穴の黒ずみが消えるって聞いたことあるんだよなあ。

それにしてもMの変幻自在ぶりはすごい。この写真作品だけでも表情が何通りもある。見る度に別人だ。俳優ってここまで色んな人になりきれるものなのか。Mはどうやって演技プランを立てているのだろう。今まで演劇のことをちゃんと考えたことがなかった分、疑問と興味が尽きない。もっと色んなMが見たい。