『ローズのジレンマ』を観た

意を決して『ローズのジレンマ』のチケットを取ってから1ヶ月、私はこの日のことばかり考えて生活していた。出演者インタビューを読み漁り、『ローズのジレンマ』をより理解するための参考文献を検索してリストアップし、当日に最適であろう服装とメイクを考え、劇場までの道順を何度もシミュレーションした。花粉症の症状が出始めたので、客席でくしゃみや鼻水が出ないよう薬を処方してもらい、外出は必要最低限に留め、ひたすらに参考文献を読み続けた。前日には気合いを入れるべくマッサージをして青いネイルを塗った。青を選んだのは、村井良大演じるクランシーがゲネプロで青いシャツを着ていたからである。

そして迎えた2月22日マチネ公演。最近までマチネとソワレの意味すら知らなかったのに、何ならゲネプロの意味だってさっき調べたばかりだというのに、とうとう日比谷のシアタークリエに来てしまった。チケット売り場には『ローズのジレンマ』のポスターが何枚も貼ってあり、クリエ前のモニターにはゲネプロ映像が流れている。今までネット上でばかり目にしていたポスターや映像が、現実の街の中で存在していることに驚く。夢じゃなかったんだ。

シアタークリエはコンパクトながらも最前席から後ろに向かって傾斜がついていて、どの席からも舞台上がよく見える劇場だった。私の席は最前ブロックの少し後ろの方だったが、オペラグラスなしでも十分に俳優の表情が見えそうだ。ステージにはすでにセットが組んであり、マスク越しにバラの香りがふんわり漂う。"ローズ"だから? 期待と緊張でドキドキしながら開演を待った。

そして肝心の舞台。とても良かった。あまりにも素晴らしかった。生で観る演劇は情報量が多く、こちらの感情の奥に手を突っ込んで揺さぶってくるような威力があり、何だかみぞみぞして落ち着かなくなって、電車に乗らず皇居方面に歩き出し、そのまま国会議事堂、赤坂、六本木を通って東京タワーに到達し、なぜかエレベーターではなく外階段で展望台に上って死にそうになり、トップデッキツアーなるものに参加して一人なのに記念写真を撮られ、外階段の揺れをもう一度体験する気にはなれずエレベーターでタワーを降りてからはさらに増上寺、田町と進み、品川駅に着く頃には20時半を過ぎていた。シアタークリエを出たのが15時過ぎだったから、5時間以上歩いたことになる。取り乱しすぎである。しかしとにかく足を前へ交互に出す動作を続けていると、かき乱されて捉えられなくなっていた思考の輪郭が徐々に浮かび上がってきた。


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『ローズのジレンマ』のあらすじはこうだ。アメリカを代表する大作家ローズ(大地真央)は、最愛の恋人である人気作家ウォルシュ(別所哲也)を亡くして以来5年間もスランプに陥っている。悪化していく経済状況を心配する秘書のアーリーン(神田沙也加)はなんとか新作を書かせようとするが、ローズは聞く耳を持たず、彼女にだけ見えるウォルシュの亡霊とのおしゃべりを楽しんでいる。同じくローズの経済状況を心配したウォルシュは、彼の未完成の小説『メキシカン・スタンドオフ』を売れない若手作家クランシー(村井良大)と共に完成させることを提案する。しかし二人の共同作業は難航して……。

『ローズのジレンマ』はニール・サイモンの戯曲で、彼が敬愛する劇作家テネシー・ウィリアムズの『夏ホテルの装い』を意識して書いた物語だそうだ。私はローズとウォルシュのモデルをフィッツジェラルド夫妻だと思い込んでいたのだが、その後雑誌『ステージスクエア』の村井良大小山ゆうな対談を読んで、リリアン・ヘルマンダシール・ハメットカップルがモデルだと知った。どちらも知らない作家だったので、すぐにリリアン・ヘルマンの著作を調べ、絶版になっている自伝的小説を図書館で借りて読んだ(その後古本で購入した)。リリアン・ヘルマンはなかなか骨太な左翼で(アメリカにこんな人いたのか)、ふんわり華やかなローズとは随分イメージが違う。ヘルマンはハメットを「ダッシュ」と呼んでいるのだが、そこだけはなんとなく「ウォルシュ」と似ている気がする。まあshの発音だけなんだけど……。

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また、ウィリアムズの『欲望という名の電車』と『ガラスの動物園』も読んだ。

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両作品とも登場人物たちがあらゆる変化と制約の中で膠着状態に陥っており、特にヒロインは板挟みの状態に置かれている。新時代と旧時代、現実と理想、生と死。彼女たちは想像力を精一杯働かせて生き抜こうと奮闘するが、彼女たちの話に真剣に耳を傾ける者は誰もおらず、次第に破滅していく。『欲望という名の電車』のブランチは結婚で人生の一発逆転を狙うも最後は妹婿スタンリーにレイプされて精神病院に入れられるし、『ガラスの動物園』のローラは気を持たせてきた弟の同僚ジムに捨てられる。彼女たちは板挟みのまま現実から永遠に締め出されてしまうのだ。彼女たちのモデルがウィリアムズの姉ローズ(!)で、彼女が精神を病んだ末にロボトミー手術を受けさせられたことを考えると、このような結末にするしかなかったのだろう。

では『ローズのジレンマ』のローズはどうか。彼女ももちろんあらゆるものの板挟みになっている。現実の苦境と空想のおしゃべり、ウォルシュの創作物に加えられようとするクランシーのアイディア、アーリーンとの親子関係。しかもローズにしか見えない恋人の亡霊とずっとおしゃべりしているのだから、ブランチのように精神病院に入れられかねない状況だ。だがローズは破滅しない。作中でスタンリーやジムやトムと同じく新時代を象徴する役割を担っている若者クランシーが、ローズの話を信じたからだ。ローズがクランシーに、自宅には亡霊になったウォルシュが存在していて、彼がクランシーを推薦したのだと告げたとき、クランシーは最初こそ精神疾患を疑ったものの、最後にははっきりと「あなたの話を信じます」と告げた。私はここに感動してしまった。ブランチもローラも、きっとこの一言で救われたはずなのだ。

ウォルシュの亡霊はウォルシュ自身ではなく、作家であるローズの「ヴィヴィッドなイマジネーション」が多分に作用した存在だと劇中で示されるが、考えてみればブランチもローズも「ヴィヴィッドなイマジネーション」の持ち主である。ブランチは流れるように嘘の経歴を話すが、これはある意味吟遊詩人のような才能だ。また彼女は元英語教師で、文学の素養もある。ローラはガラスでできた動物たちにキャラクター設定をつけて大切にしているが、この遊びも豊かな想像力があってこそ可能なものだろう。彼女たちは文学的想像力を駆使して現実を生き抜こうとしていた。しかしその想像力に追いつける者は周囲にいない。スタンリーは文学を解するにはあまりにもリアリストかつマッチョだし、ジムは自己啓発めいたことばかり口にする。ブランチの妹ステラは多少の理解は示すものの姉の破滅を防ぐほどの力はないし、ローラの弟トムは文学青年だが、まさにそのために彼は姉を捨ててしまう。彼女たちは誰にもまともに取り合ってもらえないのだ。卓越した想像力も、理解できない者の目には狂気に映る。一方『ローズのジレンマ』の登場人物は皆ローズの聞き役だ。これは全員が作家だからこそ成り立つ関係だろう。「ヴィヴィッドなイマジネーション」とはフィクションを創り出す力だ。彼らはフィクションのプロであるがゆえにローズの文学的想像力を理解できたし、彼女を完全に孤立させないでいられたのだろう。特にクランシーはローズの想像力を信じたからこそ、作家として再起できたのかもしれない。

しかし、他人の話を聞いているばかりでは身が持たないのも事実である。第二幕はひたすらローズの話を聞いてきたアーリーンが、その役割の固定性からどうやって脱するかという話だった。アーリーンは恋仲になったクランシーとの会話の中で、ローズは自分の生母であり、経済的な問題から実父(ウォルシュではない)の元で育ち、大人になってから秘書を務めるようになったのだと明かす(ここでもクランシーは聞き役だ)。アーリーンは「彼女をママではなくローズと名前で呼ぶような対等な関係が気に入っている」と言うが、実際には偉大な母に恐縮して話をしたいときにできなかったことがしこりになっていた。アーリーンはそのことを衰弱したローズにぶちまけるのだが、最初ローズは「そのときに言ってくれればよかったのに」と言う。まるで『ガラスの動物園』の母アマンダと息子トムの口論のようである。上の立場にいる者は常に無自覚なのだ。しかしアマンダとは違い、ローズは最終的にアーリーンの話を「遮らないで聞く」ことを選択し、娘の心を癒す。ローズ自身も話を聞くことによって現実に引き留められ、救われる。未練を解消したアーリーンにローズの亡霊は見えない。ローズにウォルシュの亡霊が見えていたのは、二人が「さらけ出して話をする」ことがないまま死別してしまい、未練が残っていたからなのだ。

『ローズのジレンマ』は「明かりを吹き消してくれ、ローズ」という明らかに『ガラスの動物園』をオマージュした台詞で終わるが、その後味は全く違う。『ガラスの動物園』はローラを犠牲にしてもなお誰も救われず、トムはいつも過去に後ろ髪を引かれたままだ。しかし『ローズのジレンマ』は話を聞き聞かれることでお互いを救い、全員が膠着状態(メキシカン・スタンドオフ)から抜け出し、新天地へと旅立っていく。とても優しい物語だ。これはブランチやローラを救う物語だし、ウィリアムズ自身への救いでもあるかもしれない。ニール・サイモンの愛と懐の広さよ……。またコロナ禍という膠着状態にあり、元首相が「女は話が長いから発言時間を限るべき」と放言してしまうような今の日本社会において『ローズのジレンマ』を上演するのは、ある意味ソフトなエンパワメントにも思える。コロナ禍でのあらゆる苦境を我々が知っているのも、フェミニズムが小さな成功を積み上げているのも、声を上げた誰かの話を遮らずに聞く者がいたからではないだろうか。

前述した通り、劇場にはバラの香りが漂っていたのだが、観劇初心者の私は匂いが小道具(大道具?)として使われることに驚いた。開幕早々ローズはウォルシュの「セクシャルなアロマ」を感じるために大量のバラを飾るのだと言い放ち、節約のために生花を造花に変えようというアーリーンの提案を却下する。その後だんだんバラの香りはしなくなり、ローズの寿命が近づくとともに生花も減っていく。しかしカーテンコールの歌唱でローズが現れたとき、再びバラの香りが客席に漂うのだ。つまり『ローズのジレンマ』において匂いは登場人物の存在を示すものとして使われている。観客は匂いを感じることで、登場人物と同じ空間にいるような没入感を味わう。映像や文字メディアに親しんできた私にとって、これは大きな発見だった。映画『パラサイト』においても匂いは階層を示すものとして機能するが、観客は匂いを感じられないので、あの豪邸の観察者にしかなれないことを否応なく痛感させられる。それに比べて『ローズのジレンマ』の匂いのなんと救いのあることか。我々にも膠着状態を変えられる可能性があるように思えてしまう。

さて、私はやはり村井良大が好きなので、彼と彼が演じたギャヴィン・クランシーについて書いてこの記事を終わりたい。クランシーは最初赤いチェックシャツに革ジャン、サングラスという衣装で登場するが、このサングラスが戦国鍋の信長がかけていたものと酷似しており、赤いシャツとも相まって「理念を持ち、信念に生きよ」の台詞が脳裏を過ってしまった。危ない。あのシーンは彼がいわゆる正装をする機会がほとんどない階層にいることを示すもので、クランシーが自分の文学的才能を発揮する機会にあまり恵まれずに生きてきたことを想像させられた。『ガラスの動物園』のトムが都会に来たらこんな感じなのかもしれない。

アーリーンに好意を抱いたクランシーは、ローズにアーリーンとの関係を尋ねる。彼はアーリーンがローズに並々ならぬ感情を抱いていることに気付き、彼女たちが恋愛関係にあるのではないかと疑ったのだ。女性が女性に強い執着を抱いていることに気付けること自体、クランシーが新時代の男性であることを示しているように思う。クランシーのモデルの一人であろう『欲望という名の電車』のスタンリーなら気付かないはずだ。彼は女性を己のマッチョな魅力に屈すべき存在とみなしており、自分を差し置いて他の女性に魅了される女性を一切想像できなさそうである。それに女性同士でセックスが成立するなんて夢にも思っていなさそうだ。同じくクランシーのモデルであろう『ガラスの動物園』のジムも、自己啓発めいたことばかり口にするのはパラダイムを疑えない証拠なのできっと気付かないだろう。しかしクランシーは「彼女、あなたのためなら火の輪もくぐるでしょ」と恋敵かもしれないローズに迫る。ウーマン・リブと同性愛解放運動を経たアメリカに生きる男性だからこそ出た言葉だろう。クランシーは最初のアプローチこそ多少マッチョだったが、付き合い始めてからはアーリーンにとても優しい。村井良大はこの変化の表現がとても上手かった。

クランシーは劇中で常に話を聞く役回りだが、彼の話は誰が聞くのだろうと少し心配になったが、きっとアーリーンが聞いてくれるのだろう。アーリーンの執筆状況が全く示されなかったことだけが心残りだが、新時代の作家カップルとしてどこかで精力的に創作活動に励んでいることを願う。