花宴〜お姫様教育と夢

※この記事は2020年6月17日にnoteで公開したものです。

 

東京アラートがいつの間にか解除されていた。いったい何を指示しているのか未だにわからないままである。なんだったんだあれは。

www.hanmoto.com

さて、花宴の章である。これは角田版で10ページほどの短い物語で、光君が一夜を共にしたものの名前を教えてくれなかった女・朧月夜を探し当てる内容である。あまりに短くシンプルな物語なのは、おそらく次の葵の章が物語の盛り上がるポイントであることも関係しているのだろう。それにしても一読しただけでは何も印象に残らず、この記事を書くのを諦めかけたことを白状しておく。なんとか自分の怠惰心に鞭打って数回読み、やっと引っかかったのが光君と朧月夜の逢瀬のシーンだ。光君は通りすがりの彼女の袖をいきなりつかんで口説き、抱き下ろして部屋に入ってしまう。

思いもしなかったことに呆然としている女の様子が、好ましく、光君は心惹かれる。女はがたがたと震え、
「ここに人が」と声を上げるが、
「私は何をしてもだれにも咎められませんから、人を呼んでもなんにもなりません。静かにしてくださいな」と言うその声で、光君だとわかって女は少しばかり安堵した。困ったことになったと思いはするが、恋心のわからない剛情な女だと思われたくない、とも思う。
光君は珍しく酔っぱらっていて、そのまま手放してしまうのは惜しいと思い、また女も女で、まだ若く、たおやかな性質で、強くはねつけるすべも知らないのだった。(p256)

最初は怖がっていた朧月夜が、光君に良く思われたいと考え、抵抗もできずに身を委ねる。一見朧月夜の心理がわかりづらく混乱するシーンだが、ここから想像させられるのは、登場人物たちや著者が包摂されていた平安時代ジェンダー規範である。

朧月夜は右大臣の六女で、東宮に輿入れする予定がある。家柄が良いから、将来は皇后になれるかもしれない。つまり前途洋々の若い女性なのだ。彼女は「がたがた震える」ほど、光君に突然触れられたことが怖くても、「恋心のわからない剛情な女だと思われたくない」と良家の女性にふさわしいふるまいをしようと考える。突然知らない男性に夜這いをかけられても、そつなく感じ良く対応するのがたしなみのある女性の模範的なふるまいだからだ。また今までの物語から察するに、女から断るのはもってのほかのようである(空蝉参照)。当時の貴族たちが女性を帝や東宮に嫁がせることで権力を拡大してきたことを考えると、右大臣の娘である朧月夜も、女御にふさわしい女性になることを周囲から期待されてきただろうし、彼女自身もそのような教養とたしなみのある美しい女性になるべく努力したことだろう。だから「たおやかな性質で、強くはねつけるすべも知らない」。もし粗野なふるまいをするような女性だったら、東宮との婚約はありえなかったはずだ。しかし彼女はそのために身につけたふるまいによって、婚前に光君とセックスせざるを得なくなるのだ。

光君は神出鬼没である。あらゆる身分の女のところに突然現れ、セックスを迫る。身勝手な人に見えるが、平安時代ジェンダー規範を考えると、むしろ当時の貴族女性にとっては都合の良い男性キャラクターのように思えてくる。貴族女性はセックスする男性を選ぶ権利がない、もしくは制限がかけられている状態にある。気に入らない男が夜這いに来ても拒むことは難しい。文の交換という前段階があるにせよ、勘違いが生じないとは言えないだろう。そのような状況において、光君のような完全無欠の貴公子がいきなり夜這いに来ることは、ジェンダー規範に抵抗しづらい貴族女性たちにとっては夢そのものだったのではないか。どうせ自ら選べず拒めないのなら、いきなり来訪する男性には、選んだり拒んだりする必要がないほど非の打ちどころのない存在であってほしかったのかもしれない。また、平安時代源氏物語の読者になり得るような教育を備えた女性は、ほとんど貴族である。あらゆる身分の貴族女性のもとに現れる光君の姿は、読者の幅を広げるのに一役買ったかもしれない。