【感想】内澤旬子『ストーカーとの七〇〇日戦争』文藝春秋

※この記事は2020年4月6日にnoteで公開したものです。

 

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ストーカー被害に遭った著者の、文字通り「戦争」の記録。マッチングアプリで知り合った恋人Aとの別れ話がもつれ、ストーカー行為が始まる。警察に駆け込むも法の壁に阻まれ、弁護士に相談するも無理解に晒される。その間にもAの嫌がらせは続く。恐怖に苛まれながら、著者は己の自由とヤギのために闘う。やがてストーカーを「病」とする臨床的知見に辿り着き、被害者の安全を確保するために加害者への治療を望むようになる。

印象深かったのは、著者と共に暮らす真っ白なヤギ、カヨのエピソード。彼女は著者より早くAの危険性に気がついていた。はじめてAに会ったとき、カヨは頭を低くして角先をまっすぐAに向け、ヤギの戦闘態勢をとった。著者とAが家の中に入ると、カヨも網戸を破って家に入ってきた。賢く頼りがいのあるヤギである。
Aはカヨをかわいくないと言って近付かなかった。カヨはAにとって決して従順にならない面倒な他者だったからだろう。Aはカヨとの不仲について「反抗したら殴り殺しそうで怖かった」などと、著者への脅しとも取れるような言い訳をメッセンジャーで送っている。著者にとってカヨこそが大きな弱点であることを、Aは無意識のうちに理解していたのかもしれない。著者はカヨや他のヤギ達がAに危害を加えられないか心配になり、もしヤギを傷つけられたらAに反撃できるよう、格闘技の習得を試みる。最悪の事態を想定し続ける生活の息苦しさが垣間見える。

ストーカーは私にとって身近な存在だ。大学時代、友人の友人までの範囲にいる女性の半分はストーカーやそれに準ずる被害に遭っていたし、私自身も父による母へのストーカー行為の間に立たされ、母と一緒に警察へ駆け込んだことがある。ストーカーによってもたらされる恐怖や屈辱は、不本意ながら馴染みのある感情だ。
ストーカー犯罪の認知度は高まりつつあるが、被害の実態までは認識されているとは言い難い。ストーカー被害者はあらゆる場面で無知や無理解や偏見に晒され、説明することに疲れてしまう。当たり前に享受している自由が制限されている状態を、多くの人は想像できないのだ。だから被害者は、他者に理解されない事情を抱え込み、悪意のない言葉に傷つきながら生活しなければならない。
事程左様に理解されづらく語りづらい被害についてプロの筆力を奮った著者には、敬意と感謝を表したい。この本を書いたこと自体も闘いだ。ストーカー加害者へのケア体制が整い、著者の自由と安全が永久に守られることを望んでやまない。