【感想メモ】映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』

※この記事は2020年7月18日にnoteで公開したものです。

 

映画館で観た映画その2。コロナ禍で公開が延期になっていた『~若草物語』だが、やっと先月公開になったので観に行った。傑作だった。以下はとりあえずの感想メモである。うろ覚えで不正確なところもあるだろうから、やっぱりもう一度観て確認したい。コロナがなければすぐ映画館に行くのに……。

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本作を観る前に上記の原作小説を読んだ。原作小説はたくさんの短いエピソードで編まれているので、映画化ではエピソードの取捨選択と再構成において監督の手腕が試されるだろうと想像していたが、グレタ・ガーウィグ監督はとんでもない鬼才であった。

映画は、出版社の扉の前に立つジョーの姿から始まる。ジョーが自分の力で人生を踏み出す、その第一歩から始まるのだ。もうこの時点でやられた。ジョーがニューヨークにいるのは、状況が激変したコンコードの実家を離れたからである。原作のジョーはここから様々な苦難に見舞われることになるから、観客も自然と手に汗を握ることになる。そして映画は、大人になった四姉妹の物語に、それらと関連するような子供時代のシーンを絡ませながら編まれていく。

この映画の白眉は、やはりラストの原作の改変である。原作ではジョーとベア先生が結婚して学校を開く。映画にもそれらのシーンはあるが、同時に別の物語が挿入される。ジョーが編集長に小説のヒロインを結婚させるよう指示されるシーン、ジョーが印税と著作権の交渉をするシーン、ジョーの長編小説が印刷・製本されるシーン。つまり、ジョーが結婚せずに作家として生きる結末を提示したのである。その姿は、生涯独身を貫いて執筆活動で実家を支えた原作者オルコットと重なる。オルコット自身はジョーを結婚させるつもりはなかったが、出版社の指示や読者のリクエストでしぶしぶベア先生と結婚させたらしい(原作を読んでいてもジョーの結婚は唐突で不自然に思えたので、このエピソードは深く納得してしまった)。ガーウィグ監督は、原作者の本来の意図を映画で遂げさせたのだ。しかもジョーの著作権=人生を手放させずに。まさに『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』、クソダサい邦題が的を射ているように思えてしまうほどとんでもなく素晴らしい手腕である。

またこの映画はエイミーが素晴らしい。原作でも映画でも、エイミーは画家の夢を諦めてローリーと結婚する。しかし彼女は一貫してプライドを持ち続けている。自分に絵の才能がないと気づいても捨て鉢になることなく、次の道を考えて社交界での婚活に励むし、ジョーにふられて自棄になっているローリーに説教までする。はるばるフランスまで来て挫折するというのは相当につらいことだと思うのだが、彼女は人生の手綱を決して手放さず、挫折の向こう側を淡々と着実に歩いていく。とんでもなく強い人間だ。演じるフローレンス・ピューは声が低くて体格が良く、ガッツと根性のあるエイミーにぴったりのルックスである。対照的なのはシアーシャ・ローナンの少年のようなひょろひょろしたルックスで、才能に恵まれているが子供時代への執着が捨てられないジョーにこれまたぴったりだ。途中で子供時代のエイミーがジョーの原稿を燃やすシーンが挿入されるが、この構成と演出だと、エイミーがジョーの才能を見抜いた上で嫉妬していたせいに思えて面白い。しかも、ジョーが実体験をもとに書いた小説の評価への不安を漏らしたとき、最初に励ますのがエイミーである。

登場人物の中で一番美しいのはローリーを演じるティモシー・シャラメである。異論ある観客はほとんどいないだろう。彼が美しければ美しいほど、求婚を断ったジョーの自由独立への希求が際立つ。相手がどんな美青年であっても、自由と自主性が奪われる可能性のある結婚は絶対にしたくないのだ。最後は少しローリーに傾きかけたが、あれは愛情というよりは子供時代への懐古のように思える。

本作は音の演出も印象的だった。マーチ家の四姉妹は人がしゃべり終わらないうちからしゃべり始め、何か起こると各々感想を口にしながら集まるのでとても騒々しい。一方隣のローレンス家は皆口数少なく非常に静かである。ローレンス家にマーチ家が訪れると賑やかになるが、去ると一気に静まり返ってしまう。また、ベスの闘病と死の場面でのジョーの足音も印象的だ。子供時代のジョーはばたばたと足音を立てて階段を下るが、大人になったジョーは静かに階段を下りていく。ジョーはもう大人で、二度と子供時代には戻れないという事実が、ベスの死の不可逆性とともに示される。

四姉妹の父は南北戦争の従軍牧師だが、その争点のひとつである奴隷制について原作では触れられていない。映画ではエイミーがクラスメイトたちと奴隷制について話しており、エイミーは「お父さんは奴隷制はだめだって」と話している。オルコットの両親は超越主義者で奴隷制廃止を唱えていたそうなので、オルコット自身やその姉妹たちも友人とこういう話をしたことがあったかもしれない。

オルコットはソローと家が近く、親交も深かったそうだが、ソローは四姉妹の暮らしをどう見ていたのだろうか。私は以前の記事でソロー『歩く(ウォーキング)』を引用して「ソローは当時のアメリカ女性の置かれた状況をどのくらい理解していたのだろうか」と書いたが、超越主義者であるソローはおそらく女性の権利について考えていたはずである。ソローの思想についてもっと勉強する必要がありそうだ。また、オルコットはランニングが趣味だったらしく(映画パンフレットの山崎まどか氏の評より)、一日四時間以上散策しないと自分の健康や生気を保てなかったソローとの共通点が見えて面白い。

東京でせせこましく生きているせいか、アメリカの映像を観る度にその広大さに驚かされる。この映画でも「お隣同士の」マーチ家とローレンス家の距離がかなり開いていることにアメリカを感じてしまった。また、良家だが経済的に苦しいマーチ家、裕福なローレンス家、極貧のフンメル家がすべて徒歩圏内であることにも驚いた。経済事情が居住地域に反映されがちな現代とはずいぶん違う。これが開拓地か。