逃げられない

朝起きてスマホを見ると、Amazonから配達完了の通知が入っていた。うちの玄関にはすでに『戦国鍋TV』のBlu-rayとCDがあるのか。やばいな。ドキドキしてきた。昨日は到着が待ちきれなくてどうしようもなくなっていたのに、いざ手元に来ると封を開けるのが怖い。

落ち着くためにTwitterを見る。どうやらアメリカの議事堂にトランプ支持者が突入したらしい。まったく落ち着けない。戦国時代よりも秩序がない。共通感覚の喪失を改めて見せつけられた気がした。

なんだかつらくなって、ほとんど手癖でTwitterの検索窓にMのフルネームを打ってみたのがいけなかった。Mが出演した旅番組が今日の昼に再放送されるらしいのだ。このタイミングで嘘でしょ! 番組表を確認したら本当にやっている。洗濯物を干しながらしばし考える。『戦国鍋TV』もちゃんと観ていない状態で、素に近い姿のMを見てしまっていいのだろうか。旅番組の出演者が全く演技していないとは思わないが、それでも公共の場における善き市民的な振る舞いにカメラへの意識を足したくらいのものだろう。それって演劇より我々の日常に近い。そんな番組でもしMがいい感じの振る舞いをしていたらどうするんだ。絶対コロッと好きになってしまう。まずい。大きな感情の波は30を過ぎた心身に堪える。うわーどうしよう。混乱しているうちに放送時間になる。結局リアルタイムで観てしまった。

Mはもう一人の俳優STとともに、ロザンゼルスのジークンドー道場で体験講習を受けていた。MはRENTのTシャツを着ていたから、この番組は3年ほど前のものだろう(トレーラーを見過ぎてこんな推定もできるようになってしまった)。最初のランニングと筋トレから、Mはハイレベルな基礎体力と運動神経を披露していた。まずとても姿勢が良い。体幹がしっかりしていて、軸があまりぶれない。そして予想以上に筋力がある。腕立て伏せを5回やってから人力車で進むというトレーニングも、Mは難なくやり遂げてしまった。STはMより少し運動が苦手なのか遅れをとりがちだったが、MはSTをバカにすることもなく、さりげなくサポートしていた。たまにお互いを褒めたりして、楽しげにキャッキャしている。好青年じゃん。運動神経の良い男子から鈍臭さを散々けなされた小学生の頃の私が浮かばれるようだ。サボり気味だったリングフィットアドベンチャー、再開しよう……。

番組でのMはとても表情が豊かで、いつもの澄まし顔からは想像がつかないほどだった。しかもどんな表情になっても顔のバランスが崩れない。どの角度から見てもきれいに整ったままだ。端整ここに極まれり。前回までMの顔を「端整で特徴のない顔」と書いたが、彼の場合むしろ端整さが最大の特徴なのだ。だからどんな役でも雑味を出さずになりきれるのだろう。きれいな出汁はきれいな水から取れるように。

ジークンドーは攻撃を痛くない程度に弱めて相手に当てるのが肝らしく、いつも当てないように演技をしているMたちにはそこがなかなか難しかったようだ。一度MがSTの股間を誤って蹴ってしまった。力を弱めながらのアクションには相当な鍛錬が必要なのだろう。ブルース・リーって本当にすごかったんだな。しかしSTに抱きつきながら謝るM、めっちゃかわいかった。なんだあの弟キャラは……。

Mたちの会話から推測するに、どうやら前回はニューヨークのダンス教室に行ったらしい。踊るM、見たかったなあ。ああDVD出てるのか。というかこの再放送は平日に毎日やってるのか。帯で録画予約してしまった。どんどん沼に入っていっている気がする。まだ岸に戻れるだろうか。


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今日は『戦国鍋TV』のCDだけ聴くことにした。ジャケットがあまりにレトロで笑ってしまった。このデザインは発売当時でも古い。

収録曲も非常に懐かしいサウンドだった。私はKinKi Kidsの楽曲を聴いて10代を過ごしたのだが、『戦国鍋TV』のサウンドKinKi Kidsの初期の曲に似ている気がする。80~90年代のジャニーズのパロディが多いからだろうか。いや、私は音楽の知識があまりないから、実際のところはよくわからないのだけど……。

MはCDに収録された13ユニットのうち6つに参加している。つまり6役を演じているのだが、歌声がそれぞれ全く違う。「SHICHIHON槍」では一昔前の正統派アイドルらしい声で歌い、「天正遣欧少年使節」ではかっこつけた声でのラップを披露、「堺衆」では穏やかな声で茶人っぽさ(?)を演出し、「信長と蘭丸」では胸に反響させたようなセクシーな歌声で蘭丸を誘惑し、「AKR47」では元気で明るい男の子の声で年号を叫ぶ(「天草四郎と島原DE乱れ隊」てではソロパートなし)。歌詞カードの出演者の欄を見ないと同じ俳優が歌っていることに気付けない。まるで『仮面ライダー電王』の佐藤健のようだ。役に入ると声も自然に変わるものなのだろうか。すごすぎる。たまらん。私はこういう七変化するタイプの俳優に弱いのだ。こちとら美容雑誌で同じモデルが何通りものメイクをしているページを延々と見比べていられる人間である。やめてくれー。助かりたい。

落ち着かない

大学生の頃、友人と『仮面ライダー電王』の鑑賞会をしたことがある。一度で全部は観きれないから、何度も一人暮らしの友人の家に通い、一緒にコンビニのご飯を食べて、DVDを見て佐藤健の演じ分けに感動し、寝て起きて大学に行った。高校卒業まで友人の家に泊まったことがなかったので、すごくわくわくしたのを覚えている。

当時の私は今よりもオタクカルチャーに親しんでいて、漫画もアニメも声優もアイドルも全部好きだった。今考えると節操がなさすぎてコンテンツを深く楽しめていなかったように思えるが、当時はとにかくなんでも吸収しようと必死だった。自分は無知だと思い込んでいて、とにかくなんでも知るべきだという強迫観念にかられていたのだ。

その姿勢が友人には「勧めればなんでも興味を持つタイプ」に映っていたようだ。私の歴史好きを知ると、彼女は『戦国鍋TV』の存在を教えてくれた。戦国武将たちがユニットを組んで歌い踊るテレビ番組だという。「地上波でキャラソンライブ!?」とやはり節操なく興味を持ったのだが、当時の実家のテレビはデジタル放送未対応のブラウン管、録画機器は当時すでに過去の遺物と化していたVHSレコーダーだったため、結局一度も見ずに終わってしまった。

それがまさか、10年後にBlu-rayBOXを注文することになろうとは……。

 

戦国鍋TV』のBlu-rayBOXの到着が待ちきれず、ついMの情報を調べまくってしまった。配信サイトで見られる映像作品はブックマークし、出演舞台のトレーラー映像もいくつか観た。Mは舞台ごとにまったく別人になる。どの役がMなのかよく見ないとわからないことも多い。そしてMはびっくりするほど歌がうまい。口をあまり開けなくても声が通るし、歌い方で些細な感情変化を表現できる。Mは10年間で着実に実力をつけてきたことがよくわかった。非の打ち所がないのが悔しくて、Mの発言の端々に粗を探してしまった。私をハマらせないでくれ。

ここ数年のMは、アナウンサーのような澄まし顔をしていることが多い。キービジュアルや告知トレーラーだけしか見ていないので、舞台上ではもっと多彩な表情を見せている可能性はもちろんある。しかし告知媒体が澄まし顔ということは、ごく一般的な男性の役を振られることが多いのだろうか。確かに端整で特徴のない顔だから、そういう役が似合うのはよくわかる。普通さも上手く演じられるだけのスキルもあるだろう。でも、もっとやんちゃな表情も見てみたい。何かないのだろうかとMのTwitterアカウントを遡っていると、出演した映画の舞台挨拶のオフショットでチャラい表情をしているMを発見した。そうそう、こういうのが見たいんだよ、こういうの!

いやいや、別作品をディグっている場合ではない。まずは『戦国鍋TV』に集中すべきだ。別作品のMを求め始めたらそれはただの推しではないか。際限がなくなってしまう。

そういえば、今朝は夢に『戦国鍋TV』出演者のSが出てきた。Mと「信長と蘭丸」でコンビを組んでいた俳優だ。夢の中でSは舞台の合間になぜかうちにお風呂を借りに来ていた。うちのお風呂は間取りが変わっていて、やたら大きい浴槽が二つ並んでいた。とりあえずタオルを貸してお風呂に案内した辺りで記憶が途切れている。変な夢だった。そういえばMはYouTube石川啄木『火星の芝居』の朗読劇で火星の舞台の夢を見た役をやっていましたね……ってまた別のもの観てる!

明日から緊急事態宣言が出るらしいが、舞台演劇はどうなるのだろう。前回の緊急事態宣言のときに舞台演劇が危機に晒されたことはまだ記憶に新しい。MもSも彼らのスタッフたちも再び苦境に立たされるのではなかろうか。私が買った『戦国鍋TV』Blu-rayBOXの代金の一部は彼らの収入の足しにはなるのかもしれないが、やはり微々たるものだろう。やっぱり政府がもっと補償をしてほしい。どうにかならないものか……。

もしコロナ禍じゃなかったら、Mの舞台を観に行っていたかもしれない。実物を観たら満足して落ち着くことができただろうか。それとももっとハマっていたのかな。わからない。とにかく引きこもって、一人でじっくり『戦国鍋TV』を観よう。

推したくない、ハマりたくない

実在の推しができることが怖い。理由は二つある。

一つ目は推しの言動にひっかかってしまったときが怖いからだ。ミソジニーホモフォビア、トランスフォビアはもちろん、「恋愛や結婚をするのが当たり前」や「日本の〇〇は素晴らしい」のような些細だけど一瞬息が止まるような発言を推しがしてしまう可能性は大いにある。日本社会には小さな差別が常識として蔓延していて、よほど意識的でない限りそれに気づけない。批判すればいいのかもしれないが、批判的コミュニケーションに慣れている人は少ないから非難と受け取られかねない。もし推しがそんな発言をしたらショックのあまり沈黙し、しばらく経った後に沈黙するしかできなかった自分を責めて、推しを推したことを後悔するのだろう。怖い。

二つ目は、キラキラした人を見るのがつらいからだ。推す対象になる人たちは大抵並々ならぬ努力をしている。翻って私は何も努力していない。何を頑張ればいいのかすらわからない。人生なんてこんなもんとつぶやきながらも、彼らのストイックな自己鍛錬に裏付けされたパフォーマンスを観るとどうしても自分を恥じてしまう。私がぱっとしない人生を送っているのは自業自得なんだと見せつけられた気分になるのだ。いくらネオリベラリズムと自己責任論に毒されているだけだと自己批判してみたところで、自分が努力を放棄していたという事実は変わらない。ただただつらい。

わざわざこんなことを書いているのは、推しができそうだからである。

 

俳優Mを知ったのはつい先日のことだ。

ここ数ヶ月の土曜日は『戦国炒飯TV』を観るのが日課だった。若手俳優が日本史上の人物に扮してコントをする番組だ。特に「ミュージックトゥナイト」という歴史上の人物がユニットを組んでパフォーマンスするコーナーが好きで、毎週とても楽しみにしていた。ユニットとその持ち歌も実在のアーティストをうまくパロディにしていてとても面白いし、俳優たちは皆演技も歌もダンスもびっくりするほどうまい。見ごたえ充分だった。

地上波放送が終わって寂しくなり、ふと前身番組『戦国鍋TV』はどんな感じだったのだろうと検索したのがいけなかった。10年前の「ミュージックトゥナイト」はとんでもないユニットにあふれていた。『戦国炒飯TV』が距離を取りながら俳優の芸達者ぶりを楽しめるのに対して、『戦国鍋TV』は全く距離を取れないまま麻酔を打たれて沼に引きずり込まれていく感覚だ。その『戦国鍋TV』のユニットの多くに参加してあらゆる役を演じ分けていたのが、俳優Mである。

Mはまずダンスが非常に上手い。実際のアイドルでもなかなか踊れないような高難度のダンスを軽々と踊りこなしてしまう。

Mは歌も上手い。とても聞きやすい声で、音程も声量も安定している。

そしてMはなんといっても演技が上手い。番組の演出も良いのだろうが、とにかく表情の作り込みが上手く、役が違うとまるで別人になる。Mは端正だがあまり特徴のない顔立ちで、それが演技の幅を広げているように思える。

Mは「信長と蘭丸」というユニットでその能力を遺憾なく発揮していた。俳優二人が恋愛関係を演じるのだが、相手にぞっこんな演技をするのがものすごく上手い。しばらくBLジャンルから離れていたのに、一気に惹きつけられてしまった。本当に恋しているような顔をするのだ。

見たい。もっとMの演技が見たい。でもハマりたくない。ここまで魅力的なパフォーマンスができるのは、彼がストイックに鍛錬を積み重ねているからだ。この10年でMは舞台俳優としてのキャリアを着実に積み上げてきたけど、私は何もしていない。ハマったところでつらくなるだけだ。でもMを見たい。矛盾がつらい。つらすぎて『戦国炒飯TV』の鎌倉新仏教の開祖たちによるラップユニット「僧スクリーム」の曲を度々聞くようになった。私も念仏唱えて往生したい。ヒップホップは良い。自分にとって新しい音楽だから、心を落ち着けてくれる。それに比べて昔のアイドルソングは自分の記憶がべっとり貼りついていて、どうしようもなく心がかきむしられてしまう。 つらい。

「僧スクリーム」と「信長と蘭丸」の往復運動があまりにも止まらないので、思い切って『戦国鍋』のBlu-rayBOXとCDを購入することにした。Blu-rayは9枚もあるから、見ているうちに熱もおさまるだろう。つらくなったら、またブログを書こうと思う。

【感想メモ】映画『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』

※この記事は2020年7月31日にnoteで公開したものです。

 

再び感染が拡大して映画館に行きづらくなってしまった。映画館自体は換気がしっかりされていそうだけれど、そこに行きつくまでの電車やバスはいつもなかなかの乗車率である。なので今回はずっと観そびれていた映画をAmazonPrimeでレンタルした。500円は割高だけど、繰り返し見られるし悪くはない気がする。

『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』のあらすじはこうである。才能はあるが融通が利かず無職になったジャーナリストのフレッド(セス・ローゲン)は、初恋の相手で今は国務長官を務める次期大統領候補シャーロット(シャーリーズ・セロン)と再会する。シャーロットは自分の若い頃をよく知るフレッドをスピーチライターに抜擢し、外遊に同行させる。フレッドが原稿のためにインタビューをするうちに、お互い惹かれ合い結ばれるが、大統領候補のシャーロットとの恋愛には様々な障害が待ち受けていて……。つまり男女の役割が逆転したラブコメである。最後は障害をはねのけて"ゴールイン"する。ポップコーン片手に気軽に観られる楽しい映画だ。

一方でこの映画にはあらゆる時事ネタや差別についての描写が散りばめられている。最初にフレッドが潜入取材するのはネオナチ集団だし、パーカー・ウェンブリーというロジャー・エイルズみたいなメディア王が出てくるし、カナダ首相のエリートぶりはトルドー首相とあまりにそっくりである。大統領候補のシャーロットは常にミソジニー的視線に晒されており、感情の見せ方に細心の注意を払っている。また、FOXニュースっぽい紅一点の女性キャスターは、生理ネタで揶揄されたことに怒るのだが、これは『スキャンダル』シャーリーズ・セロンが演じたメーガン・ケリーを彷彿とさせる。すべての描写をいくらでも深堀りできる映画だが、これらの社会批判的視線はラブコメのお気楽さを全く邪魔しない。その点においては『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のような映画である。

私はラブコメにおける恋愛表現のお約束には「『男らしさ』『女らしさ』を補強するもの」と「お互いにとって唯一無二の存在がありのままで愛し合うこと」の二種類があると思っているのだが(どちらにも含まれるものもあるが)、男女役割を逆転させた本作は確実に後者のタイプである。シャーロットは「自分より強くて忙しい女に勃つ男はいない」と語るが、フレッドはそういう賢く努力家な彼女が好きだ。もっさりした外見のフレッドは華やかで清廉潔白な大統領候補者の恋愛相手としては不足に見えるが、シャーロットは忌憚のない鋭い意見を聞かせてくれる彼が好きである。一見不釣り合いに見える相手を好きになってしまう展開は、まさしくラブコメのお約束である。またシャーロットのキャリアは、ウェンブリーが入手したフレッドのオナニー動画に脅かされるが、「好きな相手で妄想してオナニーすること」も、変化球ではあるが確実に後者のお約束の範疇である。フレッドのオナニーはシャーロットを愛するが故の行為であり、それを不正アクセスして盗撮しネットにばらまくウェンブリーの方がロマンチックラブの敵なのだ。ウェンブリーが運営するメディアではゲイや女性を差別するような発言が多々あるようだが、これらも「唯一無二の存在のありのまま」を否定するラブコメ上の悪役イメージを補強している。本作はラブコメのお約束を政治的文脈に乗せているようにも見えて面白い。

しかし、ラストには疑問が残る。フレッドは大統領になったシャーロットと結婚しファースト・ミスターになる。しかし彼は気骨と誇りのある記者で、原稿への信念のためにスピーチ原稿を書き直すのを渋り、イメージ戦略のために自分のクレジットの入った記事を消すことを渋った人間である。シャーロットのサポートだけで満足する人間にはとても思えない。シャドウワークにはクレジットが入らないのだ。歴史的に有名な男性たちの妻はいくら能力があっても搾取と抑圧に晒されてきたのであり、フレッドが彼女たちと同じような道を辿らないか心配である。いくら男女役割が逆転しても、権力格差から来る抑圧から逃れたことにはならない。どうやらホワイトハウスにはJFK暗殺の犯人が解明できるほどの資料があるようだから、それらを活用して歴代のファースト・レディたちの評伝を書いてほしい。もちろんフレッド・フレスキーのクレジットで。

【感想メモ】映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』

※この記事は2020年7月18日にnoteで公開したものです。

 

映画館で観た映画その2。コロナ禍で公開が延期になっていた『~若草物語』だが、やっと先月公開になったので観に行った。傑作だった。以下はとりあえずの感想メモである。うろ覚えで不正確なところもあるだろうから、やっぱりもう一度観て確認したい。コロナがなければすぐ映画館に行くのに……。

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本作を観る前に上記の原作小説を読んだ。原作小説はたくさんの短いエピソードで編まれているので、映画化ではエピソードの取捨選択と再構成において監督の手腕が試されるだろうと想像していたが、グレタ・ガーウィグ監督はとんでもない鬼才であった。

映画は、出版社の扉の前に立つジョーの姿から始まる。ジョーが自分の力で人生を踏み出す、その第一歩から始まるのだ。もうこの時点でやられた。ジョーがニューヨークにいるのは、状況が激変したコンコードの実家を離れたからである。原作のジョーはここから様々な苦難に見舞われることになるから、観客も自然と手に汗を握ることになる。そして映画は、大人になった四姉妹の物語に、それらと関連するような子供時代のシーンを絡ませながら編まれていく。

この映画の白眉は、やはりラストの原作の改変である。原作ではジョーとベア先生が結婚して学校を開く。映画にもそれらのシーンはあるが、同時に別の物語が挿入される。ジョーが編集長に小説のヒロインを結婚させるよう指示されるシーン、ジョーが印税と著作権の交渉をするシーン、ジョーの長編小説が印刷・製本されるシーン。つまり、ジョーが結婚せずに作家として生きる結末を提示したのである。その姿は、生涯独身を貫いて執筆活動で実家を支えた原作者オルコットと重なる。オルコット自身はジョーを結婚させるつもりはなかったが、出版社の指示や読者のリクエストでしぶしぶベア先生と結婚させたらしい(原作を読んでいてもジョーの結婚は唐突で不自然に思えたので、このエピソードは深く納得してしまった)。ガーウィグ監督は、原作者の本来の意図を映画で遂げさせたのだ。しかもジョーの著作権=人生を手放させずに。まさに『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』、クソダサい邦題が的を射ているように思えてしまうほどとんでもなく素晴らしい手腕である。

またこの映画はエイミーが素晴らしい。原作でも映画でも、エイミーは画家の夢を諦めてローリーと結婚する。しかし彼女は一貫してプライドを持ち続けている。自分に絵の才能がないと気づいても捨て鉢になることなく、次の道を考えて社交界での婚活に励むし、ジョーにふられて自棄になっているローリーに説教までする。はるばるフランスまで来て挫折するというのは相当につらいことだと思うのだが、彼女は人生の手綱を決して手放さず、挫折の向こう側を淡々と着実に歩いていく。とんでもなく強い人間だ。演じるフローレンス・ピューは声が低くて体格が良く、ガッツと根性のあるエイミーにぴったりのルックスである。対照的なのはシアーシャ・ローナンの少年のようなひょろひょろしたルックスで、才能に恵まれているが子供時代への執着が捨てられないジョーにこれまたぴったりだ。途中で子供時代のエイミーがジョーの原稿を燃やすシーンが挿入されるが、この構成と演出だと、エイミーがジョーの才能を見抜いた上で嫉妬していたせいに思えて面白い。しかも、ジョーが実体験をもとに書いた小説の評価への不安を漏らしたとき、最初に励ますのがエイミーである。

登場人物の中で一番美しいのはローリーを演じるティモシー・シャラメである。異論ある観客はほとんどいないだろう。彼が美しければ美しいほど、求婚を断ったジョーの自由独立への希求が際立つ。相手がどんな美青年であっても、自由と自主性が奪われる可能性のある結婚は絶対にしたくないのだ。最後は少しローリーに傾きかけたが、あれは愛情というよりは子供時代への懐古のように思える。

本作は音の演出も印象的だった。マーチ家の四姉妹は人がしゃべり終わらないうちからしゃべり始め、何か起こると各々感想を口にしながら集まるのでとても騒々しい。一方隣のローレンス家は皆口数少なく非常に静かである。ローレンス家にマーチ家が訪れると賑やかになるが、去ると一気に静まり返ってしまう。また、ベスの闘病と死の場面でのジョーの足音も印象的だ。子供時代のジョーはばたばたと足音を立てて階段を下るが、大人になったジョーは静かに階段を下りていく。ジョーはもう大人で、二度と子供時代には戻れないという事実が、ベスの死の不可逆性とともに示される。

四姉妹の父は南北戦争の従軍牧師だが、その争点のひとつである奴隷制について原作では触れられていない。映画ではエイミーがクラスメイトたちと奴隷制について話しており、エイミーは「お父さんは奴隷制はだめだって」と話している。オルコットの両親は超越主義者で奴隷制廃止を唱えていたそうなので、オルコット自身やその姉妹たちも友人とこういう話をしたことがあったかもしれない。

オルコットはソローと家が近く、親交も深かったそうだが、ソローは四姉妹の暮らしをどう見ていたのだろうか。私は以前の記事でソロー『歩く(ウォーキング)』を引用して「ソローは当時のアメリカ女性の置かれた状況をどのくらい理解していたのだろうか」と書いたが、超越主義者であるソローはおそらく女性の権利について考えていたはずである。ソローの思想についてもっと勉強する必要がありそうだ。また、オルコットはランニングが趣味だったらしく(映画パンフレットの山崎まどか氏の評より)、一日四時間以上散策しないと自分の健康や生気を保てなかったソローとの共通点が見えて面白い。

東京でせせこましく生きているせいか、アメリカの映像を観る度にその広大さに驚かされる。この映画でも「お隣同士の」マーチ家とローレンス家の距離がかなり開いていることにアメリカを感じてしまった。また、良家だが経済的に苦しいマーチ家、裕福なローレンス家、極貧のフンメル家がすべて徒歩圏内であることにも驚いた。経済事情が居住地域に反映されがちな現代とはずいぶん違う。これが開拓地か。

【感想メモ】映画『スキャンダル』

※この記事は2020年7月3日にnoteで公開したものです。

 

緊急事態宣言が解除されてから初めて映画館に行った。記念すべき営業再開後の一本目は『スキャンダル』にした。シャーリーズ・セロンが出演する映画は問答無用で観に行くことにしているのに、これは観そびれていたのだ。ちなみに『ロング・ショット』も観そびれている。だめだめである。

『スキャンダル』は2016年にFOXニュース内で起こったセクハラ事件を描いた作品で、実在かつ存命のキャスターを俳優たちが本人に限りなく似せた特殊メイクを施した状態で演じている。それだけでなく、彼女たちはさらにしゃべり方や発声まで似せているらしい。私はシャーリーズ・セロンの声も好きなのだが、今回は全く別の声でしゃべっていたので驚いた。パンフレットに載っているインタビューで、ジェイ・ローチ監督が「シャーリーズは、『鏡で自分を見た時に、自分が消えてなくなるまで追求したい。私ではなくメーガン・ケリーとして声を発したい』と言ったんだよね。」と語っており、彼女の熱い仕事ぶりがうかがえる。

内容は、途中まで登場人物の名前と顔が一致せず、ストーリーについていくのに精いっぱいになってしまった。また最初のFOXの本社ビルの構造の説明についていくのもなかなか大変であった。自分の能力が映像メディアに追いつかない。もう一度見直したらより内容を理解できる気がする。なので気づいたところをちょこちょこ書いておく。

マーゴット・ロビー扮する新人FOX社員ケイラは、上昇志向の強い女性で、出世につながる仕事をもらうべくCEOのロジャー・エイルズに直談判するチャンスを得るも、セクハラに遭ってしまう。そこからケイラのメイクはどんどん濃くなり、つけまつげがバサバサになり、髪はゴージャスに巻かれ、服も色がはっきりとして露出度が高いものに変わっていく。その姿は、同じくロジャーからセクハラを受けたメーガンやグレッチェンと雰囲気がよく似ている。セクハラの進行をファッションで表す演出には驚いたが、ロジャーやトランプがやたらと女性のセクシーさに言及していることを考えると、実際にあってもおかしくない現象に思える。しかし、あのようになんとなく雑に盛りまくった派手なファッションが「アメリカのセクシー」として人気を得られるのは奇妙に思えるのだが、日本の右派政治家のファッションもどこかちぐはぐな印象を受けることがあるので、そういうものなのかもしれない。

FOX系列のニュース編集をしているらしいベス・エイルズ(ロジャー・エイルズの妻)が、部下に「プリウスは映さないようにね」と言うシーンがある。ここで思い出したのが『ラ・ラ・ランド』だ。主人公のミアはプリウスに乗っており、パーティーのキークロークがプリウスのキーだらけで自分のものが見つけづらいというシーンがある。もう一人の主人公セブは古びたクラシックカーに乗っており、彼はお気に入りのジャズの店がサンバとタパスの店になったことに憤慨したりする。映画全体に古き良きハリウッド(クラシックカーやジャズ)と変わりゆくアメリカ(プリウスやサンバやタパスや中国語)との対比が通奏低音として響いており、ミアとセブの関係と状況の変化に心打たれつつも何か違和感を覚える作品だったが、実際のアメリカも割とそういう感じなのかもしれない。

その後ベスは別の部下がランチのパック寿司を開けているのに顔をしかめ、部下が「スシはリベラルの食べ物ではないと……」と弁解するのだが、食べ物に政治的スタンスが現れるらしいことにも驚いてしまった。しかもここ70年ほどアメリカの同盟国をやっている日本の食べ物が「リベラルの食べ物」とは……まあアメリカは伝統的に孤立主義だから仕方ないのかもしれない。日本の右派ポピュリストが親米だから不思議に思うだけで。もっとも、ベスは単純に生魚か寿司酢の臭いが苦手なだけかもしれないが。そういえば、最近Netflixで『クィア・アイ』をちょこちょこ見ているのだが、見るたびにアメリカ人の食の保守性に驚かされている。ずっと同じようなものを食べ続けているアメリカ人や、パスタやリゾットを知らないアメリカ人や、ナイフとフォークの使い方がわからないアメリカ人が出てくるのだ。料理担当のアントニは彼らのライフスタイルに合わせて世界各国の料理をアレンジして教えるのだが、もしかしたらあれは私が思っている以上にすごいことなのかもしれない。翻って日本は食に節操がなさすぎるのかもしれない。キムチもフォーもカレーもパエリアもハンバーガーも全部おいしいものに括られてるし。

さらに関連して思い出したのが、『俺たちスーパー・ポリティシャン!めざせ下院議員』という映画で、議員に立候補すると決まった男性がコーディネーターの指示で髪型をアメリカ風に、インテリア風に、飼い犬をパグからレトリバーに変えられるシーンだ。パグ=中国=共産主義で、非常にイメージが悪いのだという。公式な飼い犬の座を奪ったレトリバーをパグが窓から見るシーンがしみじみかわいそうだった。この映画は日本未公開で、深夜にテレビ放送していたのをたまたま観たのだが、これもジェイ・ローチ監督作品らしく、非常に驚いた。「アメリカ風」のイメージを描き方がコミカルかつシニカルで面白い。

花宴〜お姫様教育と夢

※この記事は2020年6月17日にnoteで公開したものです。

 

東京アラートがいつの間にか解除されていた。いったい何を指示しているのか未だにわからないままである。なんだったんだあれは。

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さて、花宴の章である。これは角田版で10ページほどの短い物語で、光君が一夜を共にしたものの名前を教えてくれなかった女・朧月夜を探し当てる内容である。あまりに短くシンプルな物語なのは、おそらく次の葵の章が物語の盛り上がるポイントであることも関係しているのだろう。それにしても一読しただけでは何も印象に残らず、この記事を書くのを諦めかけたことを白状しておく。なんとか自分の怠惰心に鞭打って数回読み、やっと引っかかったのが光君と朧月夜の逢瀬のシーンだ。光君は通りすがりの彼女の袖をいきなりつかんで口説き、抱き下ろして部屋に入ってしまう。

思いもしなかったことに呆然としている女の様子が、好ましく、光君は心惹かれる。女はがたがたと震え、
「ここに人が」と声を上げるが、
「私は何をしてもだれにも咎められませんから、人を呼んでもなんにもなりません。静かにしてくださいな」と言うその声で、光君だとわかって女は少しばかり安堵した。困ったことになったと思いはするが、恋心のわからない剛情な女だと思われたくない、とも思う。
光君は珍しく酔っぱらっていて、そのまま手放してしまうのは惜しいと思い、また女も女で、まだ若く、たおやかな性質で、強くはねつけるすべも知らないのだった。(p256)

最初は怖がっていた朧月夜が、光君に良く思われたいと考え、抵抗もできずに身を委ねる。一見朧月夜の心理がわかりづらく混乱するシーンだが、ここから想像させられるのは、登場人物たちや著者が包摂されていた平安時代ジェンダー規範である。

朧月夜は右大臣の六女で、東宮に輿入れする予定がある。家柄が良いから、将来は皇后になれるかもしれない。つまり前途洋々の若い女性なのだ。彼女は「がたがた震える」ほど、光君に突然触れられたことが怖くても、「恋心のわからない剛情な女だと思われたくない」と良家の女性にふさわしいふるまいをしようと考える。突然知らない男性に夜這いをかけられても、そつなく感じ良く対応するのがたしなみのある女性の模範的なふるまいだからだ。また今までの物語から察するに、女から断るのはもってのほかのようである(空蝉参照)。当時の貴族たちが女性を帝や東宮に嫁がせることで権力を拡大してきたことを考えると、右大臣の娘である朧月夜も、女御にふさわしい女性になることを周囲から期待されてきただろうし、彼女自身もそのような教養とたしなみのある美しい女性になるべく努力したことだろう。だから「たおやかな性質で、強くはねつけるすべも知らない」。もし粗野なふるまいをするような女性だったら、東宮との婚約はありえなかったはずだ。しかし彼女はそのために身につけたふるまいによって、婚前に光君とセックスせざるを得なくなるのだ。

光君は神出鬼没である。あらゆる身分の女のところに突然現れ、セックスを迫る。身勝手な人に見えるが、平安時代ジェンダー規範を考えると、むしろ当時の貴族女性にとっては都合の良い男性キャラクターのように思えてくる。貴族女性はセックスする男性を選ぶ権利がない、もしくは制限がかけられている状態にある。気に入らない男が夜這いに来ても拒むことは難しい。文の交換という前段階があるにせよ、勘違いが生じないとは言えないだろう。そのような状況において、光君のような完全無欠の貴公子がいきなり夜這いに来ることは、ジェンダー規範に抵抗しづらい貴族女性たちにとっては夢そのものだったのではないか。どうせ自ら選べず拒めないのなら、いきなり来訪する男性には、選んだり拒んだりする必要がないほど非の打ちどころのない存在であってほしかったのかもしれない。また、平安時代源氏物語の読者になり得るような教育を備えた女性は、ほとんど貴族である。あらゆる身分の貴族女性のもとに現れる光君の姿は、読者の幅を広げるのに一役買ったかもしれない。